第四章 動き出した時間 場面三 東方からの使者(十)
アントニアは黙ってアウグストゥスの髪を撫で、頬を撫でた。第一人者の眼から滲み出た涙がアントニアの指を濡らす。室内に長い沈黙が下りた。アウグストゥスは何も言わず、ただ涙を流し続けている。アントニアにも、この孤独な老人にかける言葉などなかった。
「アントニア………」
不意に名を呼ばれた。
「はい」
「できた女だ、そなたは」
何の脈絡もなく、アウグストゥスは呟く。
「姉上の娘―――」
アウグストゥスはそう言って、またしばらく黙った。それから身体を起こそうとしたので、アントニアはそれを支えた。アウグストゥスは半身を起こし、アントニアの両手を握る。
「我が姪よ。愛しい姉上の聡明な娘。そなたはわたしにとっても実の娘同様だ。どうか力を貸してほしい」
「叔父上―――」
「そばにいておくれ」
「ここにいますわ」
「わたしを助けてくれ」
アウグストゥスはアントニアを見つめた。
「助けてくれ………」
「叔父上」
アントニアは第一人者の手を握り返す。男性にしては華奢な、細い指だ。
「わたしに出来ることなら、どうか何でも仰って。叔父上にはみんなついているわ」
アウグストゥスは何も言わずに俯いた。小柄な老人の頼りなげな肩が哀れに思えて、アントニアは静かな口調で言った。
「叔父上、どうか今はお休みになって。お休みになるまで、ここにいますから」
アウグストゥスはしばらく反応しなかった。アントニアは叔父の両手を取り、唇を触れた。それから肩に軽く触れ、横になるよう促す。叔父は再び横たわった。アントニアはその手のひらを軽く握る。
「ガイウス………」
アウグストゥスは呟いた。
「わたしのガイウス―――」
しばらく沈黙があった。アウグストゥスは眼を閉じる。
「赦して………赦してくれ………」
身を切られるような声だった。アントニアは手のひらを握ったまま傍らの椅子に腰を下ろす。
少しして、アントニアは名を呼ばれたような気がして叔父を見た。だが、叔父はアントニアを見てはいなかった。宙に視線を投げたまま、再び呟いた。
「………赦してくれ………」
叔父の嘆きの声が規則正しい寝息に変わるまで、アントニアは寝台の傍に付き添っていた。