第一章 父の帰還(九) 場面三 アントニア(二)
アウグストゥスとリウィアへの帰還の挨拶を終えてから、ティベリウスはその足でアントニアの邸を訪れた。先触れは既に送ってある。ティベリウスは玄関大広間に通された。吹き抜けからは早春の光が注ぎ、床にもうけられた雨水用水槽の水に反射して明るく輝いている。アントニアは家柄こそそう高くはないものの、父マルクス・アントニウスから相続した財産は莫大だ。ドゥルーススとアントニアが構えた邸は、それほど大きくはないが、美しく上品なものだった。開放的な若夫婦の気性を反映するかのように、色大理石をちりばめた床や、オレンジを基調に暖色系でまとめられた壁には、どこか訪問者を和ませるものがあった。周囲には大理石製の祖先たちの像が静かに佇んでいる。その中には父の像も、ドゥルーススの像もある。ティベリウスはそれらを眺めるともなく眺めていた。
「ティベリウス………」
囁くような義妹の声に、ティベリウスは奥を見た。懐かしい声だ。若草色のドレスを身につけたアントニアは、足早に歩み寄ってきた。ティベリウスの身体に軽く手を触れ、頭一つ分高い義兄を見上げる。ティベリウスはその手を取り、軽く口付けた。長い間すまなかった、と謝罪の言葉を述べようとするよりも早く、アントニアの柔らかな身体が、ティベリウスをきつく抱いた。
「―――」
突然の事に戸惑いながらも、ティベリウスは義妹の背を軽く抱いた。香油と、どこか異国風の香りがふわりとティベリウスを包みこむ。
アントニアは泣いているようだった。乱れた呼吸を通して、女の感情の震えがじかに伝わってくる。ティベリウスは義妹の結い上げた栗色の髪を撫でた。
不意に熱いものがこみ上げてきた。ティベリウスは目を閉じる。自分でも意外な心の変化だった。しばらく黙ったまま柔らかい背を撫でる。義妹の身体の温かさの中で、ローマへ戻ってきた時の緊張感や、胸の奥に凝っていた何か強ばったものが、雪が融けるようにゆっくりと消えてゆく。快い解放感に充たされながら、ティベリウスは、義妹に頬を寄せた。
「アントニア」
耳元で囁く。自分でも意外に思うほど、柔らかな響きだった。
「アントニア、本当にすまなかった……」
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