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第四章 動き出した時間 場面一 羊の群れ(四)

 リウィアは腹を立てたまま帰っていった。いつものことだった。母がいなくなると、ティベリウスはいつもホッとする。再び机に戻り、引き出しから一枚物の地図を取り出し、それを広げた。二十二歳の頃、アウグストゥスと共に赴いた東方の地の乾いた空気が、脳裏に甦る。シュリアからアルメニアへ、そしてパルティアへ。アルメニアでの華々しい戴冠式、そしてパルティア領内の、ティグリスとエウフラテス(ユーフラテス)の二つの大河の間―――ギリシア語でいうならばメソポタミア(二つの河の間)で行われた平和協定の調印式。あの時の空気と高揚感を、今でも昨日の事のように思い出すことが出来る。あれは何と充実した日々だったろう。

 リウィアは常にティベリウスに栄達を望んできた。確かに栄達ということをいうならば、アウグストゥスが苦境にある今こそが、公生活に復帰する好機だった。アウグストゥスは、表面上はどうあれ、このかつての右腕の復帰を歓迎するに違いなかった。東方は、ティベリウスがかつて赴任を拒み、それがもとでアウグストゥスと決別した因縁の地でもある。九年前の不面目を雪ぐこともできる。東方で虚しく日々を過ごす軍団兵たちも、今の状況からの打開を切望している。今必要なのは、戦略や外交といった技術ではない。「決断」―――ただその一点に尽きるのだ。ティベリウスにはそれが出来る。

 リウィアには、まさに今こそ、息子にかつての栄光を取り戻すまたとない機会と見えたことだろう。それは間違ってはいない。

 だがティベリウスには、自分からアウグストゥスに膝を折るつもりは全くなかった。そもそもティベリウスの側には、アウグストゥスに赦しを請う理由は存在しない。ティベリウスに公生活への関与を禁じたのは、他ならぬアウグストゥスであったのだから。

 今のティベリウスの存在そのものが、第一人者アウグストゥスと、その奴隷と化した元老院への、抗議の表明なのだ。今、ティベリウスまでが表面上でもアウグストゥスに屈すればどうなる?それは、羊の群れにティベリウスもまた身を投じることを意味する。

今、国政の責任者はアウグストゥスであり、ティベリウスは一私人にすぎない。国政への復帰がありうるとすれば、アウグストゥスの側からティベリウスに対して働きかけがあるべきなのだ。それが筋というもののはずだ。

 それを意地というなら、確かにその通りであろうと思う。だが、それがティベリウスの自尊心だった。もしもその為に私人としての一生を余儀なくされたとしても甘受するだろう。

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