第四章 動き出した時間 場面一 羊の群れ(三)
ローマを率いてきた、貴族の誇りはどこへ消えたのだ。我々の偉大な父祖たちは、この祖国のために、高貴なる者の責務<ノブリス・オブリージェ>を果たしてきた。それこそが、我々の我々たる由縁であり、存在理由であったのだ。だが今や誰も彼も第一人者の不興を恐れ、辺境で苦境にある兵士たちのために声を上げる者さえいない。
何という唾棄すべき奴隷根性だろう! 一体いつから、我々は羊の群れに成り下がったのだ?
アウグストゥスよ。これがあなたの築いた、新生ローマの姿なのか?
ティベリウスは、アウグストゥスに同情したい気にさえなる。六百人の奴隷の群れを養いながら、たった一人でこの国を率いる、六十六歳の孤独な第一人者―――それが今のアウグストゥスの姿なのだ。
「何か言ったらどうなの」
岩のように押し黙っている息子に、リウィアは堪えかねたように言った。
「お前の欠点は、他人に説明しようとしないことだわ。ロードス島に引いた時だってそう。アウグストゥスがあれほど激怒したのは、お前の拒絶があまりに一方的だったからよ。信頼し、信頼されていると思っていた人間に理由もなく突然一方的に拒絶されれば、誰だって傷つくわ。それが何故判らないの。アウグストゥスも、わたしも、ドゥルーススもみんなそう。みんな傷ついたわ。だからお前は傲慢だと謗られるのよ」
「………」
「大体、ドゥルーススのことも少しは考えてやりなさい。何もかもアントニアに任せきりにして。あの子の将来をどう考えているの。あの子に、世捨て人の息子として一生を送らせるつもり?」
ティベリウスは黙って母親の繰言を聞いた。
自分は傲慢なのだろうか。アウグストゥスは、ティベリウスを財務官に推薦した時、元老院で推薦演説をした。その中で、この継子は無口で、尊大な印象を与えるかもしれないが、それは生まれつきの悪い癖であって、心根は決してそうではない、と言った。冗談めかした大げさな物言いで、議事堂内には笑いが起こったが、居並ぶ元老院議員を前にそんな風に言われるのは苦痛だった。十七歳だったティベリウスは、若者らしくやはりそれなりに傷ついたのだ。アウグストゥスは意外に皮肉屋なところがあり、身内に対しては時に無神経でさえあった。だが、いかに無神経な言葉に傷つけられようと、ティベリウスは冗談めかしてさえ、他人にそれを苦痛だと伝えるすべを知らなかった。いや、そんなことを伝えようなどとは考えもしなかった。それは自分の弱さだと、ティベリウスは認識していたのだから。
ティベリウスは物心つくかつかないかの頃から、父からもリウィアからも、輝かしいクラウディウス一門の将来の長としてふさわしい振る舞いを身に着けるよう、散々叩き込まれてきた。些細なことで動揺したりすればみっともないと言われ、泣けば叱責され、はしゃげば軽々しいとたしなめられた。それをごく当たり前のものとして育ってきたティベリウスは、父を失い、九歳でアウグストゥスの下に引き取られた時、ほとんど野放しの動物にしか見えない子供の群れの中に放り込まれ、一体どう振舞ったらよいのか見当もつかなかった。
その自分が、他ならぬこの母から傲慢と非難されるとは。ティベリウスは母と向き合うと大抵疲労を覚える。アウグストゥスにはこの国への理想があり、施政者としての愛情と責任感がある。それゆえに継父はティベリウスに様々なことを望んだのだ。だがこの母には自分の望む息子像という理想しかない。二人とも、ティベリウスを理解しないことでは同じだったが、その理由は根本的なところで異なっていた。




