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第一章 父の帰還(八) 場面三 アントニア(一)

「アントニア」

 ティベリウスは、長椅子で寝入ってしまったゲルマニクスに目をやった。アントニアは微笑する。

「もうそろそろダメね」

 弟の小ティベリウスやリウィッラは早々に、そして少ししてドゥルーススが自室に引っ込んだ後も、ゲルマニクスはどうにか起きていようとしていたが、さすがに限界らしい。大体、夜明けには起きて学校へ行かなければならないのだ。灯りが貴重、という実用的な理由もあって、夜明けが一日の活動の始まりなのは、ローマだろうがどこだろうが変わりはない。

「ガイウス」

 アントニアは立ち上がり、ゲルマニクスを揺り起こした。

「―――」

 ゲルマニクスは眠そうに目を(こす)る。

「部屋へ行きなさい」

「……はい」

 ゲルマニクスは眠そうな声で返事をした。だがすぐに機敏な動作で立ち上がり、横たわったままのティベリウスに軽く挨拶のキスをした。

「お会いできてよかったです。おやすみなさい」

「おやすみ」

 ティベリウスは簡単にそう応じた。ゲルマニクスはアントニアともキスを交し、自室へ戻っていった。その背を見送って、アントニアは明るい声で言う。

「もう、好きなだけ呑んで大丈夫よ」

「もう十分だ」

「あら」

 アントニアはいたずらっぽい笑みを見せる。

「ずいぶん控え目になったのね。ガイウスに遠慮していたのではないの、ビベリウス(飲み助さん)?」

 ティベリウスは苦笑してかぶりを振った。アントニアが用意してくれたのは確かに上質のワインで、呑めばいくらでも入っただろう。だが呑み仲間もなしに痛飲する気にはさすがになれない。アントニアは母オクタウィア―――アウグストゥスの姉―――の古風な教育のせいもあってか、酒をほとんど口にしない。飲み物としてのごく薄いもの以外は。彼女の父、マルクス・アントニウスはデュオニソス神を騙ったほどで、相当な酒呑みだったと言われているが、母の許で育ったアントニアはほとんど面識もないだろう。

 「国家の敵」マルクス・アントニウス。アントニアは、アウグストゥスの姉オクタウィアと、彼のライヴァルであったアントニウスとの間に生まれた。明らかな政略結婚だった。その後、アエギュプトゥスと結んだアントニウスは、アクティウムの海戦でアウグストゥス軍に敗れ、彼が愛した女王クレオパトラの許、自死して果てた。

「ローマのワインは口に合わなかったかしら」

「いや、美味いよ。もっとも、これは多分ギリシア産だ」

「そうなの?」

 ティベリウスは部屋の入り口に控えていた給仕係に目をやった。

「レスボス島のものです」

 答えを得て、ティベリウスは頷く。

「古くからの産地だな。昔の食通が褒めていた。―――アントニア、提供してくれた友人に礼を言っていたと伝えてくれ」

「ピソ殿よ。あなたの好みは、あの方が一番ご存知だろうと思って、相談したの」

「グナエウス・カルプルニウス・ピソか」

 ティベリウスは旧友の名を呟き、軽く肩を竦める。旧友というか、悪友というか―――別に親友といってもいいが―――とにかくティベリウスの呑み仲間筆頭だ。ティベリウスよりも六歳年長で、カルプルニウス一門という、クラウディウス一門同様古くからの貴族階級に属する。

「それなら、礼は言わなくていい」

「そうはいかないわ」

「どうせ、そのうち恩着せがましく言ってくる」

 アントニアはおかしそうに笑う。アントニアは、若い頃から本当によく笑う女だった。弟のドゥルーススも快活な男だったから、弟夫婦の間にはいつも笑いが絶えず、それはティベリウスにとって大きな安らぎになっていた。この義妹の温みに迎えられた時、ティベリウスはようやくローマに「帰ってきた」という実感をもてたのだ。

 七年前、皆の反対を―――反対などという生易しいものではなかったのだが―――押し切ってローマを離れた時、ティベリウスは心身共に疲れ果てていた。地中海に浮かぶ美しい島、ロードス島で学問に専心し、同行してくれた少数の友人やギリシア人たちに囲まれて過ごす日々が、ティベリウスに活力を取り戻させてくれた。ローマへの帰還は自らが請うたことではあったが、それでもこの地へ戻るのは、ティベリウスにとっては敵地に乗り込むような緊張感があったのだ。

 あの時、止めなかったのはアントニアただ一人だった。そればかりか、ティベリウスの一人息子、ドゥルーススの養育をも引き受け、折々にその成長を報せてくれた。そして、ティベリウスの帰還を心から喜んで迎えてくれたのは、恐らく身内ではこの義妹一人なのではないかとも思う。



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