第三章 父の友人 場面五 父と息子(六)
「ネロ殿」
老人は言った。
「父君との友情に免じて、ひとつ聞かせて欲しい」
「どのようなことでしょうか」
問い返すと、老人はじっとティベリウスの眸を見つめた。低い声が唇から洩れる。
「父君は、自然死ではなかろう?」
「―――」
ティベリウスは息を呑んだ。老人の眸は、まるで鈍い光を放っているようだった。そこから目を逸らす事も出来ず、ティベリウスは、意を決して小さく頷いた。老人は深い息を吐き出す。
「ありがとう」
「誰かから耳にされましたか」
「いや。だが、そうだろうと思っていた。あれはアントニウス殿がはっきりとローマの敵とされた年の翌年のことだった。父君はわしのように狡くはなかったからな……」
「どうか、ここだけの話にしておいて下さい」
「他に知っている者は?」
「わたしの他には執事のシラヌスだけです。遺体を片付けた奴隷が一人知っていましたが、口の堅い男で、それもとうに死にました」
老人は目を瞠った。
「父君が亡くなった時、あなたは九歳だっただろう」
「ええ。シラヌスは、父亡き後、わたし達兄弟がアウグストゥスの庇護を受けなければならない事が判っていました。あなたが見抜かれたように、アントニウスの死と父の死が結び付けられる事になれば、よい影響を及ぼさないと判断したのです。わたしもそう思います」
「ネロ殿」
知らず、ティベリウスは早口になっていた。赤い色が視界の隅にちらつき、雨の匂いに血の臭いが混じり合う気がした。ティベリウスは父の死体を見たのだ。死体を発見し、シラヌスを呼んだのは、他ならぬティベリウスだったのだから。私室で机についたまま自ら首の血管を切り裂き、血の海の中で事切れていた父の姿は、恐らく生きている限り忘れる事は出来ない。
「弟は何も知らずに逝きました。母も何も知りません。どうか、あなたも胸のうちひとつに納めておいて下さい」
老当主はしばらく信じられない様子でティベリウスを見つめていた。やがて皺だらけの手を伸べて、ティベリウスの手をとった。その手はざらざらしていて、乾いていた。
「むごいことを口にさせた。……どうか赦されよ」
「父を好きだと言って下さったあなたに、こちらこそ辛い話をお聞かせしてしまいました。………死ぬまで誰にも洩らさぬつもりでいたのに」
ティベリウスは老当主の手に軽く手のひらを重ね、それから少し頭を下げた。
「明朝、またお目にかかります。今度はもう少しまともな姿をお見せできると思います。今夜は本当に申し訳ございませんでした」




