第三章 父の友人 場面五 父と息子(五)
「ネロ殿」
しばらくの沈黙の後、老人は口を開く。
「あなたがロードス島に退かれた時、ローマはまさにひっくり返らんばかりの大騒ぎでしたな。大胆な事をなさったものだ」
鳩の鳴くような声で、老人は笑った。ティベリウスは困惑した。
「その話はご容赦下さい」
「わしが知る限り、あのアウグストゥスの命令にあれだけはっきりと「否」と言ったのは、あなたが初めてであろう。あの男が激怒したのも判らなくはない。あの男は根っからの政治家だからな。根回しと搦め手で人を落とすのは得意だ。それがあれだけ正面から大喧嘩になるとは、よほどあなたの命令拒否が予想外だったのだろうと思うと、わしは何やらおかしくてな。そう言っては不謹慎だが」
老人はティベリウスの制止など耳に入らないかのように、愉しげな口調で続けた。
「あれから、五年にはなりますかな」
「七年です。ですが、ピソ殿、どうかその話はやめて下さい」
「後悔しておいでか」
「ご当主」
後悔しているかと問われれば、していると答えるしかない。自分の振る舞いは子供じみていた。ドゥルーススもアントニアも、多くの人を傷つけた。だが、他の行動がとりえたかといえば、それも否と答えざるを得ないのだ。
老人は返答がないことを予想していたかのように、頬笑みを浮かべたまま話を続けた。
「あなたは父君によく似ておいでだ。わしは父君が好きだったよ。わしはポンペイウス・マーニュスについて神君カエサルと争い、あなたの父君はポンペイウス殿の遺児やアントニウス殿に従ってアウグストゥスと戦った。カエサル暗殺の下手人を称え、彼らに褒賞を与えるべきだと堂々と主張したあの男は、名門貴族の裔として、ローマの行く末を心から案じていた。わしも暗殺者達を支持はしたが、彼らと共にシチリアへ行って闘う事まではしなかった。わしには、彼らにローマの未来を見ることが出来なかったのだよ。彼らの気持ちは痛いほど判った。だが、神君を除いたところで、ローマはもう我ら旧き貴族たちの手には戻ってこない。頭が代わるだけならば、もうわしはその為に闘う気にはなれなかった。だから身を引いたのだ」
「ですが、あなたは戻ってこられた」
「アウグストゥスに口説き落とされてな」
老人は苦笑した。
「あの男には、あの男なりの理想がある。長い内戦を終えて、ガタガタになったローマを建て直すために力を貸せと、三十近くも年少の男に身を低くして頼み込まれてはな。「共和政信奉者との融和」の看板に使われると判っておっても、受けざるを得まい。あの男は目的のためなら頭一つぐらい誰にでも何度でも下げてみせる男と判っていても。それに、わしも旧きよき時代を懐かしむだけの年寄りになり果てるには、まだ少し気概もあった」
「あなたは皆のいる前で、父を褒めて下さった……」
老人は頷く。
「よく覚えておるよ。あなたを困らせたな。二十歳の頃だったか?財務官になったばかりのあなたは、父君への賛辞に、何も答えずに少し頭を下げた。『父君の事を覚えておいでか』と重ねて訊くと、小さな声で『はい』と言った。わしはあの男が好きだったのだよ。隠すつもりは毛頭なかった。息子のあなたに会えて嬉しかった」
あの時の事は、後で何度か思い返したのだ。胸を張って「ありがとうございます」と答えたかった。だが、ティベリウスにはアウグストゥスやリウィアに対し、どうしても遠慮があった。アウグストゥスを実の父同様に慕う弟に、実父を思い出させたくもなかったのだ。
「あの時は申し訳ありませんでした」
「謝ることはない。むしろ、あなたの立場も思いやらず、大人気ない事をしたと思う」
老人は優しく言った。