第三章 父の友人 場面五 父と息子(一)
ティベリウスはふと目を覚ました。それからすぐにハッと身体を起こす。ピソは、確か夕食の時間には起こすと言っていたはずだ。だが、明らかにこの暗さも静かさも真夜中のものだった。親切心なのは判るが、さすがに夕食の時間までには当主―――ピソの父君―――に挨拶をしなければならなかったのに。
しかし、今更言っても仕方がない。半日近く眠ってしまったのはティベリウス自身なのだ。ゆっくりと目が闇に慣れてくると、卓上に何かが載っているのが判った。簡単な食事のようだ。寝た時にはなかったはずだから、ティベリウスが眠っている間に誰かが置いたのだろう。ティベリウスは元々眠りは浅いほうで、普段ならちょっとした物音や、人の気配でもすぐに目が覚めてしまう。なのに、今日はよほど熟睡していたらしい。
『何だ、本当に君か?』
邸に着いた時、ピソはそう言って眸を丸くした。
『踵に翼でもあったのか。空飛ぶ船で来たにしてはズブ濡れだ』
相変わらずの軽口を叩きながら、ピソはティベリウスと従者を中へ案内し、着替えを用意させた。最初、ピソは使者が間違った情報を伝えたかと思ったらしい。だが、ティベリウスが命に別状がないとはきちんと聞いた、と言うと、それ以上細かくは尋ねてこなかった。長い付き合いのこの友人は、ティベリウスが何故急にブルンディシウムまでやって来たのか、見当がついたのだろう。
使者にドゥルーススが落馬して足を挫いたと聞かされた時の気持ちを、どう形容したらいいのだろう。ティベリウスの心は、完全に過去の悪夢へと引き戻された。雪に覆われた、モグンティアクムの陣営。寝台を囲む沈鬱な表情の男たち。弟の落ち窪んだ目と、乾いた唇。魂の去った身体の、ほのかな熱―――
酒で気持ちを鎮めようとしても無駄だった。ティベリウスはいてもたってもいられなくなり、用意させた馬で嵐の中へと飛び出したのだった。アントニアは、最初ティベリウスを制止した。使者が報告したとおり、ドゥルーススには命に別状はなく、医師もピソもついている。せめて嵐が静まるまで、また立て続けに空けた酒が抜けるまで待つべきだと言ったのだ。恐らく、それがごくまっとうな判断だっただろう。だが、ティベリウスには嵐が静まるまでどころか、酔いが抜けるのを待つことさえ出来なかった。今冷静になって考えてみると恥ずかしさに顔が赤らむ思いがするが、ティベリウスはほとんど義妹に食ってかかったのだ。一刻を争うのに、それが何故判らないのか、と。
『小さな傷も甘く見れば命に関わる。あなたも知っているはずだ。ドゥルーススは、足の傷がもとで命を落とした。あの時傍にいることが出来ていたら、わたしは押さえつけてでも、憎まれてでも自分の手であれの足を落としただろう。わたしは間に合わなかった。みすみすあれを死なせてしまった。まだ若い命を。凱旋将軍にもなれないまま、アントニア、あなたたちを残して』
ティベリウスは言い募った。この義妹が、他ならぬドゥルーススの妻であった女が、何故自分の気持ちが判らないのかと、理不尽な憤りさえ覚えていた。アントニアは驚いたようにティベリウスを見つめていた。
『何故判らない? ドゥルーススは泣いていた。無念だったろう。わたしにはあれの気持ちが痛いほど判る。ドゥルーススは、道半ばで、あなたや、愛しい者たちを残して死ななければならなかった。あの時の過ちを、わたしは二度と繰り返したくないだけだ。わたしにこのまま、黙ってドゥルーススを失えと?』