第一章 父の帰還(七) 場面二 家族(六)
アントニアは、「食事の支度をするから」と言って、ゲルマニクスを伴って邸内に入っていった。気を遣ったのだろう。ドゥルーススはこの状況で引っ込むわけにもいかず、仕方なくティベリウスが再び腰を降ろしたベンチに並んで掛けた。
何を話したらいいのか判らなかった。恨みつらみ、とアウグストゥスは言ったが、それさえも浮かんでこない。この七年、ドゥルーススを育てたのはアントニアであり、アウグストゥスやリウィアだった。ドゥルーススは、この父を、ほとんどいないものと考えてきたのだ。
「お前の様子は、アントニアやヘファイストスが手紙でよく知らせてくれた」
ティベリウスはゆっくりと言う。ヘファイストスはドゥルーススの教育係で、ギリシア人だ。ローマよりもはるかに古い歴史を誇るギリシア文化は、上流階級にとっては必須の教養科目といっていい。ドゥルーススもまたこの教育係の監督の下、数人のギリシア人たちからギリシア語と、そして数学、哲学、文学など、水準と洗練の点でいまだローマをはるかに凌駕しているギリシアの諸学問を学んでいる最中だ。父はギリシアの文化にも学問にも通じており、分野によってはほとんど学者並みの水準に達しているらしい。ティベリウスの「引退先」であるロードス島はギリシア世界に属しており、数多くの大学を抱える学問の島として有名だ。父は「この島で学問に専念したいから」と言ってローマを去ったのだ。
「長い間、済まなかった」
父の謝罪の言葉に、ドゥルーススは答えなかった。そんな言葉で片付けないでほしい、と思う。プライドなのか、憤りなのか判らない。だが、返事をすれば許すことになりそうで、返事が出来なかったのだ。押し黙ったままの息子を前に、ティベリウスはちょっと吐息を洩らしたようだった。
「ドゥルースス」
「はい」
「わたしは近いうちにエスクィリヌスの丘に移る。アウグストゥスから、マエケナス殿が遺した別邸を譲り受けたから」
ドゥルーススは父を見た。エスクィリヌスの丘は、ここパラティウムに比べると、ローマの中心部から外れている。元老院議事堂、公文書館、裁判などが行われる集会所など、数多くの公共施設が集まるローマ広場までは、ここパラティウムからならすぐだが、エスクィリヌスからだと優に半刻(約三十分)近くかかる。
「わたしは家長としての務めは果たすが、公職への復帰は禁じられている。それが帰国の条件だった」
だから、市の中心部から離れて住む、ということらしい。その生真面目な潔癖さを、ドゥルーススは父らしい、とふっと思ったが、口には出さなかった。
「お前の事は、母上やアントニアに少し話をした。追ってお前にも話があるだろう。―――後で会おう」
それだけ言って、ティベリウスは立ち上がる。そのまま素っ気ないほどの態度で、さっさと背を向けて立ち去ってしまった。
七年ぶりの息子との再会に、もう少し何かあってもいいのではないか。「長い間済まなかった」―――ティベリウスの、ドゥルーススへの謝罪の言葉はこの一言だけだった。それも、心がこもっているのかいないのかさえ判らない。別れたあの日と同じで、あまりにも事務的だった。
今更、何故戻ってきたのか。父の広い背に、心の中で言葉をぶつけた。一度棄てたものなら、いっそ棄て去ってしまってほしい。ドゥルーススは父が死ねばいいとさえ思っていたのだ。死んでしまえば、ドゥルーススの方でも、もっと容易にこの父を棄てられただろうに。時折耳に入る父の言動に、一々心を騒がせる事もなくなっただろうに、と。忘れ去ってしまいたいと願いながら、いざこうして再会すれば、その言動にどうしても心は揺れる。その自分の弱さが腹立たしかった。