第三章 父の友人 場面一 グナエウス・ピソ(四)
アントニアの計らいで、ドゥルーススはアントニアの邸に住み続けながら、月に一度、エスクィリヌスで暮らすティベリウスの許へ挨拶にやってくる。ティベリウスが邸の様子や勉強の進み具合を尋ね、ドゥルーススがそれに答えるといった近況報告的なもので、一刻(夏の一刻は約一時間十五分)と会っていない。半年ほどはそれで何事もなく過ぎたが、八月に会った時、ドゥルーススはティベリウスに食ってかかったのだ。何故ローマを棄てたのか、きちんと説明して欲しいと。恐らくずっと―――この半年間に限らず、ティベリウスがローマを去って以来七年間にわたって、ずっと胸の中にわだかまっていた問いだったのだろう。
予期された問いではあったが、ティベリウスには答えられなかった。アントニアは、ドゥルーススに答えてやって欲しいと言った。息子の心に爪を立てたままにはしないでやって欲しいと。ティベリウスとて、出来る事ならそうしてやりたい。だがそれが出来なかった最大の理由は、その「答え」が、現在のアウグストゥス主導の国のあり方や、彼の血族主義についての議論につながらざるを得ないからだった。
ティベリウスの持つ旧き共和国への思い、世界国家ローマの運営における共和政の限界、神君やアウグストゥスの卓見への尊敬、そして継父の血族主義への批判―――それを十三歳の息子に説明するのは困難だった。また少年のうちから、下手にアウグストゥスや現体制への批判を植えつけるのは息子のためにならないという判断もあった。
歯切れの悪い返事しか出来なかったティベリウスに、ドゥルーススは当然の事ながら納得しなかった。腹を立てたまま邸に戻ったドゥルーススは、アントニアに対し、二度とエスクィリヌスへは行きたくないと訴えたそうだ。息子に用があるのなら、自分の方から来ればいい。自分から足を運ぶのはもうごめんだと。アントニアもさすがに困ったのだろう。一度パラティウムに足を運んでくれないかという手紙が届いたが、行ったところで解決する話でもない。ティベリウスはアントニアに返書を送り、気遣いに感謝を述べた上で、しばらくドゥルーススを来させるには及ばないと書き送った。更にドゥルーススに対しても一通を認めた。
「愛する息子へ。
先日はエスクィリヌスまで足を運んでくれて感謝している。お前の日々の成長を目にすることは、父親として何よりも嬉しい事だ。
お前がわたしに対して投げかけた問いも、今感じているであろう腹立ちも、それは全て正当なものだ。原因は全て父の側にあり、お前の側にはいかなる過ちも責任もない。だが、種蒔きに時が、収穫に時があるように、物事には全てそれにふさわしい時がある。勝手な事を言うと思うだろうが、どうかもうしばらく、時が熟するのを待って欲しい。
アントニアには、しばらくお前をこちらに来させるには及ばないと話をした。お前の怒りは正当なものではあるが、この上ない愛情をもってお前を慈しんでくれる義叔母に負担をかける事はしないよう心がけなさい。お前の怒りは、わたしに対する怒りであるはずだ。それを周囲の者に訴えて対処を求めるような事は、成人式も無事に終えた大人の取るべき態度ではない。ましていずれ一族の運命を担うべき者として、決してしてはならないことだ。お前は、父親であり家長でもあるわたしに、直接話をするべきであったのだ。その事を心に留め、今後はくれぐれも気をつけるよう。
お前に神々の祝福があるように。」
返事はなかった。だがドゥルーススは、程なくエスクィリヌスを訪れる事になった。そのきっかけを作ったのが、忠実な友、グナエウス・カルプルニウス・ピソだった。