第三章 父の友人 場面一 グナエウス・ピソ(二)
ピソが先に馬に鞭を当てた。ドゥルーススもそれに続く。風が気持ちいい。程なく兄弟に追いついた。ピソは長男のマルクスに言う。
「あの木立で休憩だ」
「判りました。場所を見てきます」
マルクスは心得た様子で、すぐに馬を駆った。二十二歳のマルクス・ピソは、長男らしく面倒見がよく、最初気後れしていたドゥルーススをよく気遣ってくれた。次男のグナエウスとは、修辞学校で面識があるが、ドゥルーススは大抵ゲルマニクスと共に行動しており、親しいというほどではない。学校では負けん気の強いガキ大将という雰囲気だったが、兄には文句を言いつつも一目置いている様子だ。ピソがマルクスを躾け、マルクスがグナエウスを躾けている、というところだろうか。間に妹が一人いたが、幼いうちに亡くなったらしい。
「ドゥルースス」
グナエウスが言った。
「尻が痛いだろ」
「ちょっとな」
ドゥルーススは答える。どうやらグナエウスは、ドゥルーススを相手に先輩風を吹かせることが出来るのが嬉しくて仕方がないらしい。
「姿勢にコツがあるんだ。腿に変に力を入れたら駄目さ」
一瞬、ピソと眸が合った。蒼氷色の眸は笑いを含んでいる。尻に水膨れを作ったというピソの言葉を思い出し、ドゥルーススも笑いを噛み殺す。
こんな父や兄弟がいたら楽しかっただろうに。ドゥルーススは少しそんな事を思った。グナエウスによると、ピソは相当「おっかない」らしかったが、多少厳しいところはあっても、息子たちと気軽に遠乗りやスポーツを楽しむピソは、ドゥルーススの目には息子思いの理想的な父親に見える。もっとも、六歳の息子を棄ててロードス島に引っ込み、七年ぶりに戻ってきたと思えば今度は別邸に引っ込んで、ロクに顔も見せない男と比べられては逆に失礼というものかもしれない。
ティベリウスがロードス島から戻って既に半年以上が過ぎたが、ドゥルーススは成人式の当日を含めても、この父と七回しか顔を合わせていないのだ。二ヶ月前に会った時には、ついに口論になってしまった。口論とはいっても、ドゥルーススが一方的に父に食ってかかったのだったが。つくづく、何故あのままロードス島にいてくれなかったのだろうと思う。
ドゥルーススはピソを見た。それほど数多くはないと聞く父の友人たちを、ドゥルーススはほとんど知らない。このピソとも、成人式の日にローマ広場で一度顔を合わせた程度だ。一体何故、この父の友人はドゥルーススをこの別荘に誘ったのだろう。それも、父と共にではなく、ドゥルースス一人を名指しで。父のことも時々話題には上るが、それも別に友人を庇うとかドゥルーススを諭すとかいう風でもなく、ティベリウスが天文学に凝っているとか、絵画よりも彫刻が好きだとか、意外にも戦車レースが好きでスポンサーをしていたこともあったのだとか、そういった他愛のない話ばかりだった。
長男のマルクスが、場所を見定めたらしく駆け戻ってきた。
「いい木陰がありました。高台で風もよく通るし、眺めも抜群です」
きびきびとした口調でマルクスは言う。どこか偵察を終えて上官に報告をする斥候のようだ。それから年少二人に目を向ける。
「ドゥルーススもグナエウスも、もう少しだ」
「ぼくはまだまだ行けるよ」
グナエウスが少しムキになった様子で言った。
「そうか」
マルクスが微笑すると、グナエウスは「先に行くよ」と言って急にペースを上げた。遠ざかってゆく背を眺めながら、マルクスはちょっと肩を竦めて父を見る。
「我々はゆっくり行きましょう」
「あれは全く懲りんな。また後半バテるようなら置いて行こう」
ピソが呆れた様子で苦笑し、ドゥルーススもつい笑った。
※