第二章 アントニア(十六)場面四 ウィプサーニア(二)
アントニアは、義兄が怒っているだろうと思った。だが、その表情は相変わらず落ち着いている。軽く挨拶をすると、ティベリウスも簡単にそれに応じた。
アントニアは応接室の用意を指示した。
「こちらから伺うつもりだったわ」
卓を挟んで向かい合い、アントニアは言った。ティベリウスはかすかに苦笑する。
「聞いたよ。だが、こんな時間だ。あなたは時々、伴もきちんと整えずに乗り込んでくるから、待っていると気にかかって仕方がない」
「近所ですもの」
「あなたという人は」
そう言って、義兄は小さく吐息を洩らした。そのまま、しばらく黙り込む。それから、微苦笑を浮かべたままぽつりと言った。
「あなたには、時々驚かされる」
「ごめんなさい」
「まだ何も言っていない」
「マエケナス殿の所へ行ってきたの。お招きを受けたから」
「それも聞いている。そちらへ伺おうかと思ったぐらいだ」
「おいでにならないほうがよかったわ」
アントニアは言った。
「蜂蜜入りのレモン湯を出していただいたの。それを器ごと顔に投げつけてきたわ」
ティベリウスは、さすがに唖然としたらしい。
「顔に命中させるつもりだったけど、手で遮られてしまって。でも、頭からレモン湯はかぶってた。蜂蜜が入ってるから、ヌルヌルするって」
咄嗟に言葉が出てこなかったのだろう。目を瞠って自分を見つめる義兄に、アントニアは苦笑して言った。
「後できちんと謝るわ。この後すぐにでも」
ティベリウスは額を押さえ、深い吐息を洩らす。
「アウグストゥスのところへも行ったね。母上とも話した」
「リウィアは聞きつけて入ってきたのよ」
「アウグストゥス、母上、オクタウィア殿、それにマエケナス殿。他に誰がいる?」
「ユリアと結婚なさるの?」
アントニアは尋ねた。義兄は顔を上げ、わずかに語気を強める。
「わたしの質問に答えてくれ」
「その件で話をした相手、という意味なら、それで全部よ」
短い沈黙があった。
「妻から聞いたそうだね」
「そうよ。でも、彼女は関係ないわ。わたしが勝手にアウグストゥスの所へ行ったの。どうしても信じられなかったし、確かめて根も葉もない事だって言ってあげたかった」
義兄の口調が、わずかに厳しいものになった。
「妻はわたしにもあなたにも謝り続けていた。自分の軽はずみな愚痴で、こんな騒ぎになってしまったと悔いていた」
その言葉に、アントニアの中にわずかに残っていた怒りの火は、冷水を浴びたように掻き消えた。
初めて自分の行動を後悔した。
アウグストゥスの許へ行ったのは、話の真偽を問い質すためであって、初めからあんな騒ぎを起こすつもりだったのではない。だが、事実を知って平静を失ってしまったアントニアは、その後の影響までは考えが及ばなかったのだ。
「……ごめんなさい。それは本当に悪かったわ」
アントニアは目を伏せた。
「ウィプサーニアに、後でお詫びを言わせて。本当にごめんなさい。そこまで考えなかったの」
短い沈黙があった。義兄は卓上で指を組み合わせ、しばらく続ける言葉を探しているようだった。




