第二章 アントニア(十五)場面四 ウィプサーニア(一)
「奥様」
邸に戻ると、執事のシラヌスが玄関大広間まで出てきてアントニアを迎えた。ドゥルーススは、今夜は友人たちとの内輪の宴に出かけて不在だ。
「本家から使者が来られました」
予想通りだった。「本家」とは無論義兄の邸だ。アントニアはちょっと笑って言う。
「呼び出し?」
「いえ。お見えになるそうです。奥様が戻られたら、夜中になっていても構わないので知らせるようにと」
シラヌスは言った。この忠実な執事は、義兄の使者が訪れた理由を知っているようだった。もっとも、あれだけの騒ぎを起こしたのだから当たり前と言えば当たり前だ。情報に疎くては名家の執事など務まらない。年齢は六十代に入っており、ティベリウスやドゥルーススの父の代から執事を務めていた男だ。
ドゥルーススとアントニアが結婚した翌年には、ティベリウスは家長としてドゥルーススが独立して邸を構えることを認め、自邸の筆頭の執事だったシラヌスをつけてくれた。二十歳の主人の、経験不足を補わせるつもりだったのだろう。当のティベリウスとて二十四歳の若さであり、家長の資格である二十五歳に達するまで、形の上ではアウグストゥスの後見を受けてはいたのだが。
シラヌス家はクラウディウス家を支えてきた一族の一つで、血筋を遡ればもともとは奴隷だった。クラウディウス家によって奴隷身分から解放され、自由身分になった。ローマでは、奴隷が主人によって奴隷身分から解放される、ということは珍しいことではない。解放後は多くは主人の一家の庇護民のひとりとなり、様々な形で主人の庇護を受け、また一家に奉仕する形になる。シラヌス家もその一つだった。
「シラヌス」
「はい」
「すぐにこちらから伺うわ。そう使者を送って」
「かしこまりました」
アントニアは顔を洗い、服を着替えてから、簡単に髪を整えて化粧を直した。手早くさせたつもりだったが、義兄の行動の方が早かった。外套を用意させ、玄関大広間に出たアントニアは、そこで当の義兄と出くわす羽目になる。ティベリウスは珍しくも、二人の伴を連れ、先触れもよこさずに乗り込んできたのだ。




