第二章 アントニア(十三)場面三 マエケナス(六)
「ぼくの意見など聞いても意味はないよ」
マエケナスは肩を竦める。
「ぼくをアウグストゥスの私設顧問と言う人もいる。だが、ぼくは人の心を映し出す鏡のようなものだよ。自分の願望を見せているだけだ。ぼくは誰のことも変えようとか、説得しようとかいう気はないからね。人は自分そのものであるとき、最も力強い。それがどんな形であれだ。アグリッパを失って、アウグストゥスは新しい右腕と、彼の孫たちの保護者を求めていた。それにふさわしい名と実力とを備え、アウグストゥスに忠実で、元老院にも受けがいい名門の出身。しかも彼の愛妻の意にも叶い、子供を作る能力もある。これだけ最適の人材は、ローマ広しといえど、他にちょっと見当たらない」
アントニアは愕然とした。
「あなたが―――ティベリウスを推したのね?」
唇が慄える。
「人でなし……! 最低だわ。よくもそんなひどい事を思いつくものね。人間じゃないのは叔父上ではなく、あなたの方よ」
「アウグストゥスも、ぼくに言われるまでもなく念頭にはあったと思うけどね。確かに、彼の名前を最初に口にしたのはぼくだ。だが、決断したのは彼だよ」
「何故、ドゥルーススではなくティベリウスなの」
マエケナスは笑った。
「判らないかい? あなたがいるからだよ」
「わたし?」
アントニアは眉を寄せる。
「母に気を遣っているの?」
「あなたがアウグストゥスの姪だからだよ。直系ではなくても、あなたは彼の近い血縁だ。当然あなたの子供たちも、アウグストゥスの血族ということになる。もしもユリアからつながる血がうまくいかなかったら、次は間違いなくあなただよ。数少ない手駒の一つだ。ドゥルーススが死ねば、あなたの再婚相手選びにアウグストゥスは頭を捻るだろう。心の準備はしておいた方がいいね」
マエケナスの言葉が終わるのを待たずに、アントニアは卓上の器を取り、マエケナスに投げつけた。厚みのあるガラスの器はこぶし大の石ころほどの重みがあったが、そんなことは頭を掠めもしなかった。マエケナスは肘でそれを防いだが、残っていたレモン湯を顔面に浴び、目を瞬かせた。ガラスの器は床に落ち、重たげな鈍い音を立てて転がった。
「……ぬるぬるするな。そういえば蜂蜜入りだ」
マエケナスは呟く。三人の少年が音もなく入ってきて、一人が床を掃き、一人が周囲を拭き、一人がマエケナスの身体を拭こうとした。マエケナスはそれを断り、彼が持っていた布を取って自分で顔を拭いた。
アントニアはその場に構わず踵を返し、一言も言わずに部屋を出た。
「アントニア」
背後からマエケナスが呼んだが、アントニアは足を止めなかった。だが、どこからか出てきた二人の青年に行く手をふさがれてしまう。
「どいて!」
怒鳴ったが、二人は逆に手を伸ばしてくる。アントニアは彼らを追い払おうとして手を振った。
「触らないで!」
その間に追いついたマエケナスが、アントニアの肩を掴む。アントニアは肘打ちを食らわせる勢いで右腕を振った。
「あなたもよ、わたしに触らないで!」
「アントニア」
「どきなさい!」
マエケナスは強引にアントニアの腕を掴んだ。
「離して!」
「ティベリウスは断らなかったそうだよ」
「そんなの本心じゃないわ。あなたの話なんかもう聞きたくない、手を離しなさい!」
「アントニア。あなたはティベリウスを知っているね? あれは公共心と自尊心のカタマリのような男だ。ローマのため、第一人者アウグストゥスのためだと言って懇願されたら、それを断って愛妻をとるなど死んでも出来ない。ティベリウスがティベリウスである限り。それはアウグストゥスがアウグストゥスである限り、血の呪縛から逃れられないのと同じだ」
マエケナスはそう言って手を離した。アントニアは動きを止め、正面から男を睨みつけた。