第二章 アントニア(十一)場面三 マエケナス(四)
アントニアは少しためらったが、とにかく腰を降ろした。次に起こったことは、全くアントニアの想像の外だった。
マエケナスは笑みを浮かべたまま、突然アントニアの腕を掴んでのしかかった。
「何をするの!」
「判らないかい?」
人を食った口調でマエケナスは言った。部屋の隅に彫像のように立っている青年が目の端に引っかかった。
「離して!」
「あなたは、多少怒ったぐらいの方がきれいだね」
「バカにしてるの?」
アントニアは相手の身体を蹴り上げようとしたが、マエケナスは膝でアントニアの服の裾を踏みつけ、動きを封じてしまった。
「どいて!」
アントニアは相手の腕を払いのけようともがきながら怒鳴った。
「離さないと、首を刎ねるわ!」
「どうやって」
「寝首でもなんでもかきに来るわ! 脅しじゃない、本当に殺すわよ!」
マエケナスは噴き出し、それから声を上げて笑い出した。
「初めて聞いたね、女性からそんな脅し文句は」
不意に手を離し、男は立ち上がった。そのまま愉快でたまらない様子で額に手を当てて笑いつづける。アントニアは身体を起こし、相手を睨みつけながら服の乱れを直した。マエケナスにはそれも面白かったらしい。
「逃げないんだね」
「必要ないわ。どうせ、あなたには何も出来ないんでしょう」
アントニアは突き放す口調で言う。マエケナスは気分を害した様子もない。
「ぼくを挑発してるのか? 男にそういう物言いをするのは少し気をつけたほうがいいね。皆がぼくのように礼儀正しいとは限らない」
「バカにするのはやめて。どういうつもりなの」
「ぼくは、美しく怒っている人間がとても好きでね」
「真面目に話して、マエケナス殿」
「ぼくは真面目だよ」
マエケナスは再び椅子に横たわった。目を細め、どこかうっとりとアントニアを見つめる。手のひらを翳し、まるでアントニアの身体をなぞるような動きをした。
「あなたはきれいだ。ぼくは腕のいい彫刻家や画家を大勢知っている。よかったら、あなたをモチーフにいくつか作品を作らせてもらえないかな。眼を吊り上げて怒っているところが殊に美しい。玄関大広間に置いたりはしないよ。私室に飾って楽しみたい」
「いい加減になさって。そんなお話なら、もう帰るわ」
アントニアは立ち上がる。マエケナスは全く口調を変えずに話を続けた。
「あなたは、アウグストゥスを恐れていない。ぼくを恐れていないように」
「怖くなんかないわ。何故恐れる必要があるの」
マエケナスは苦笑する。
「正直に告白すると、ぼくはアウグストゥスが怖いよ」
「友だちでしょう」
「昔はね」
「今は?」
「さて。難しい質問だな。彼を親しいものに感じた気持ちがどんな風だったのか、ぼくにももう思い出せないよ。とにかく、ぼくは彼が怖い。畏怖すら覚えている」
アントニアは再び腰を下ろす。
「何を恐れるの?」
「彼の隙のない意志の強さをね。目的のためには手段を選ばず、神罰も偽善も裏切りも、無論人の感情など一顧だにしない、恐ろしい意志の力だよ。アントニア、君の叔父は化け物だ。あれは人間じゃない」
アントニアは驚いてマエケナスを見つめた。
「ひどいことを仰るのね」