第二章 アントニア(十) 場面三 マエケナス(三)
「オクタウィアは、娘として、妻として、母として生きるしかないローマ女の価値観を叩き込まれているからね」
ようやく、マエケナスは口を開いた。
「それがオクタウィア自身が考える女の徳であり生き方であるなら、それに殉じることを不幸というのは当たらない。貫けたことは幸福とさえいえる。それに、オクタウィアは自分を不幸だとは考えもしないと思うね。誰もが自分は果たして幸せかと自問するわけじゃない。そんな問いは、あの女性を困惑させるだけだろう」
マエケナスはワインを呑み、卓上の菓子をつまんだ。
「今は廃れてしまったが、旧い結婚の誓いの言葉はあなたも知っているね? あなたがガイウスなら、わたしはガイアになります』。わが国の名もなき女たちは、オクタウィウスの娘と呼ばれ、アントニウスの娘、ユリウスの娘と呼ばれ、常に男の名の下で生きてきた。夫に尽くすのは、オクタウィアには太陽が東から昇るほどに当たり前の事だ。
あなたはアウグストゥスを非難したが、パルティア遠征に失敗し、苦境にあったアントニウスのために物資と兵と資金とを用意し、自らそれを届けようとしたのがオクタウィアだ。アントニウスはモノとヒトとカネはありがたく受け取るが、妻は大人しく家で待てと言った。オクタウィアは文句一つ言わずその通りにした。激怒したのはアウグストゥスのほうだった。だが弟に何と言われようと、オクタウィアは夫の子と、夫の連れ子とを守る意志を曲げなかった。父に従い、父亡き後は家督を継いだ弟に従い、アントニウスの妻となればアントニウスに従う。それがローマ女である彼女の生き方だ。誰にも触れられない」
アントニアは叔父の友人を見つめた。
「だから、あなたも叔父を責めるなと言うの?」
マエケナスはちょっと笑った。
「ぼくは責めるなとは言わない。ただ、責めても無駄だとは言うよ。姉弟とは面白いものだね。アウグストゥスもオクタウィアも、一度決めたらテコでも動かないところはよく似ている」
「たとえ政略結婚でも、父も母も、結婚したときは独身だったわ。ユリアは未亡人でも、ティベリウスにはウィプサーニアがいるのよ。ティベリウスはウィプサーニアを愛しているし、ウィプサーニアもそう。お腹に子供までいるのに」
「そんなのは大した問題じゃないね。離婚すれば独身になる」
「―――! 滅茶苦茶だわ!」
アントニアは思わず席を立つ。マエケナスは平然と言った。
「別に無茶な話じゃないよ。ローマ人の妻を持ちながら、エジプト女王と結婚するのは違法だ。だが離婚は犯罪でもなければ、不道徳でもない」
アントニアは相手を見おろしたまま、怒りのためにしばらく口がきけなかった。
「父のことは仰らないで」
「大体、君の叔父上は身重の女を夫に直談判して譲らせた男だよ。目的のためにはティベリウスの妻が喪中だろうが妊娠していようが、たとえ不治の病で数ヶ月の命だろうが、毛ほども気にかける男じゃない。予定通りに実行するだけだ」
マエケナスは笑みを浮かべたまま物憂げに身体を起こし、立ち上がる。宥めるようにアントニアの身体に手を置いた。
「まあ、掛けなさい」