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第二章 アントニア(九) 場面三 マエケナス(二)

 亡くなったアグリッパ将軍と並んで、アウグストゥスの旧友であるマエケナスは、しかし彼らとは異質な存在だった。アウグストゥスは「元老院の第一人者」として、アグリッパは首席将軍として、それぞれに名誉ある役職(クルスス・ホノルル)を務めて人々の尊敬を集め、それを誇りとしていた。それに対し、マエケナスは元老院議員にさえなろうとせず、第二階級である騎士階級(エクイタス)に留まり続けている。一つの例外―――マエケナス・ホールといわれる集会場―――を除いて、公共施設も建てていない。

 その代わり、この男はローマ文化を育てた。詩人、作家、音楽家、画家、彫刻家、俳優―――ありとあらゆる芸術の担い手たちのパトロンとなり、彼らに職を与え、金を与え、必要であれば農園と使用人付きの別荘まで与えた。そして何よりも、活躍の場を与えたのだ。この邸の豪華な装飾の数々も、一部は彼のお抱え芸術家たちの手によるものだろう。

 内乱期を終え、安定と繁栄を享受するローマでは、様々な文化が花開いた。その仕掛け人がマエケナスだ。だが、水道橋や浴場を造ったアグリッパや、「レンガのローマを、大理石のローマに生まれ変わらせた」と高らかに言ったアウグストゥスなどに比べ、その評価は一般的にどうしても低くなる。怠惰や奢侈、不道徳を非難する声も絶えなかった。もっとも、この男がそんなことを気にしているかということでは、アントニアにも見当もつかなかったが。

 アウグストゥスへの訪問を終えたマエケナスは、今度はアントニアを訪れ、自分の邸へ誘った。アントニアは戸惑いながらも、それを受けたのだった。

「母とは親しいんですか」

 相手が何も言おうとしないので、アントニアは自分から尋ねた。

「親しくなりたいと思ってはいるがね。あなたの母君は、ローマ中の尊崇の的だ」

 傍らの青年が、甕から柄杓で混酒器にワインを注ぎ、それをマエケナスのカップに注いだ。マエケナスが軽く手を振ると、青年は部屋の隅に下がる。影のような男だ。

「何故、わたしを誘ってくださったの」

 マエケナスは次々に質問を投げかけるアントニアを眼を細めて眺め、まるで関係のない質問をした。

「二十三だったね、確か」

「ええ」

「オクタウィアは、あなたに何か言ったかい」

 アントニアは叔父の友人を見た。

「……『アウグストゥスを責めないで』って」

 少し間がある。マエケナスは微笑した。

「それから?」

「『アントニウスと結婚したから、わたしは、あなたたちに恵まれたのよ』」

「それは事実だね」

「母は幸せなのかしら? マエケナス殿、あなたは母の若い頃をご存知だわ。母は幸せだったかしら?」

 マエケナスは、しばらく黙っていた。それから、逆に問い返してくる。

「あなたはどう思うね?」

「母は昔のことを何も話さないの」

 アントニアは言った。

「母だけじゃない。昔のことは誰もわたしに教えてくれないわ。わたしの周りには、自分の目で見聞きした人たちがたくさんいるのに、誰も話したがらないの。わたしは自分で調べたのよ。古くからの使用人たちや他の人たちに聞いたり、本を読んだりして。自分の身内に関わることなのに、わたしよりも赤の他人の方がずっとよく知っているの」

 マエケナスは軽く頷く。

「事実を調べて、あなたはどう思った?」

「母をかわいそうだと思った。だけど、すぐに判らなくなる。母はいつも頬笑んでいて、わたしにも他の子供たちにも優しくしてくれた。少しずつ弱っていくのが怖くて仕方がないの。母は、このまま何も言わずに逝ってしまうのかしら。でも、もう尋ねることは出来ないわ」

 室内に短い沈黙が降りた。マエケナスは自分では何も答えようとはせず、問いばかりを投げかけてくる。アントニアは苛立ちを覚え始めていた。卓上のグラスを取り上げ口に運ぶ。レモンと蜂蜜と、上に添えられた薄荷の爽やかな香りがうまく調和していた。確かに、マエケナスの料理人は優秀なのだろう。

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