第二章 アントニア(七) 場面二 オクタウィア(三)
「リウィア」
息の混じった穏やかな声が言った。オクタウィアは、長く病床にあった。その声は以前の張りを失っていたが、代わってどこか透明な深みを帯びていた。
「娘が、失礼な事を」
「いいえ」
リウィアの声は硬かったが、もうそこに怒りはなかった。気持ちを鎮めようとするように、大きく息を吐き出す。
「起きていいの?」
「今日はずいぶんいいわ。ありがとう」
「また、お薬を届けさせるわね」
「いつも申し訳ないわ」
顔を上げなくても、オクタウィアの頬笑みはアントニアの目にはっきりと見える。それから弟に声をかけた。
「ガイウス」
アウグストゥスの返事はない。
「ごめんなさいね」
「いや」
アウグストゥスの声は、リウィアに増して硬かった。
「娘の言ったことをお気になさらないで。わたしからよく話をするわ」
アウグストゥスは苦笑したようだった。
「姉上には敵わない」
「年の功ね」
オクタウィアはさらりと言う。
室内の空気が、ようやく緩んだ。アントニアは俯きがちに母から身体を離す。オクタウィアはアントニアの頬に触れた。手のひらは水気を失い、さらさらしている。アントニアが顔を上げると、じっと眸を見つめた。
「部屋に戻りなさい」
諭す口調だ。アントニアは頷いた。
「はい」
アウグストゥスとリウィアに会釈だけして、アントニアは彼らに背を向ける。
オクタウィアの声が聞こえた。
「お客様が見えているわ」
「客? ―――今日は千客万来だな」
アウグストゥスが言う。アントニアは構わず部屋を出たが、そこにいた人物を見とめて驚いて足を止めた。
「マエケナス殿」
叔父の旧友であるガイウス・キリニウス・マエケナスは、ここからは離れたエスクィリヌスの閑静な住宅街に、広大な庭園を持つ邸宅を構えている。確か、アウグストゥスよりは二、三歳年長のはずだ。
マエケナスはアントニアの手を取り、それから軽く抱擁する。男の胸元を飾る太い金の鎖が、アントニアに軽く当たった。身体からは異国風の香の強い匂いがする。
「あなたの母君を見舞っていたのだよ」
身体を離し、叔父の友人はゆったりとした口調で言う。その手にはいくつもの指輪と、太い腕輪が光っていた。手指が長い。優雅だが節はくっきりしており、女性のような、と形容する事は出来ない。
「どうもありがとう」
アントニアは礼を言ったが、マエケナスがそれほどオクタウィアと親しいという話は聞いたことがない。大体、アウグストゥスがマエケナスの邸に行くことはあっても、その逆は極めて珍しかった。
叔父の友人はアントニアの横をすり抜け、室内へ入っていく。アントニアはそのまま部屋に戻った。