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第一章 父の帰還(三) 場面二 家族(二)

 今朝、久しぶりに父の夢を見た。父がローマを去るときの夢を。ローマの首席将軍だった父が、最高権力者であり継父でもあったアウグストゥスと大喧嘩した挙句、一切の公職を退き、小アシア(トルコ)近くに浮かぶ小島、ロードス島に引っ込んでから、七年が過ぎた。軽蔑を込めて「流罪人」とさえ呼ばれることもある。父は、ある意味では故人であるドゥルースス・ゲルマニクス以上に死者だった。いっそ本当に死んでくれれば、ドゥルーススとしてもせいせいする。父が妻や母や息子を棄てられるのなら、ドゥルーススとてこの父を棄て去ってしまいたいのに。

「今日は、わたしの人生が始まった日だ」

 アウグストゥスは言った。ローマの最高権力者のノロケは、まだまだ続きそうだった。集まった面々は時折笑いを噛み殺しながら、私語を交わしながらそれを聞いている。アウグストゥスは一向に気にする様子もない。

「ここに集まった人々の誰一人として、我が最愛の妻リウィアの持つ数々の美徳の恩恵にあずかっていない者は、一人としてあるまいとわたしは確信している。この腕の中に、わたしは世界を抱いているのだ。あらゆる幸福が、あらゆる美が、あらゆる善きものがこの腕の中にあるのだ。これほどの果報者が他にあるだろうか」

「アウグストゥス」

 アウグストゥスの傍らに臥していたリウィアが夫の袖を引いた。アウグストゥスは言葉を切り、愛妻を見る。

「どうした」

「毎年毎年。皆が呆れてるわ」

「そんな不心得者は叩き出すぞ」

 室内に、小さな笑いが起こった。リウィアはアウグストゥスの耳を軽く引っ張り、囁く。

「みんな、目の前の料理が気になって気もそぞろよ」

「お前の料理にか? 空腹は最上のソースだぞ」

「そんな話をしているわけじゃないわ」

「最後まで言わせなさい。この日のために、日頃抑えに抑えているノロケを一言たりとも言い漏らすまいと十日がかりで書き出しておいた。ここでやめたら、わたしは欲求不満で悶え死ぬ」

 リウィアは苦笑し、こぶしで軽くアウグストゥスの胸を突いた。

「じゃあ、ご自由に」

 痰が絡んだのか、アウグストゥスは軽く咳払いをした。

「……さて、どこまで話したかな」

 ドゥルーススはゲルマニクスとちょっと目を見交わした。ゲルマニクスも周囲同様に笑いを噛み殺している。ドゥルーススはそっとこの場に集まった面々を周囲をうかがった。

 ここにいるのは、アウグストゥスの一人娘ユリアが、父の親友との間にもうけた三男二女のうち、東方世界(中東)で任務を遂行中の長男ガイウスを除く四人、ゲルマニクスと妹のリウィッラ、二人の母でアウグストゥスの姪にあたるアントニア、そしてドゥルーススだ。テーブルを挟んだ向かいの寝椅子に臥しているアウグストゥスの孫娘アグリッピナが、傍らのアントニアに何か囁いた。アントニアは小さく笑う。

 父には義妹にあたるこの女性は、ドゥルーススには実母以上の存在だ。父が去った時、まだ二十九歳だったアントニアの手許には、ゲルマニクスにリウィッラ、そして末っ子の小ティベリウス―――身体が弱いので、邸に残されている―――の三人の実子がいた。父の弟である夫ドゥルーススも、両親も既に亡かった。そんな中で、六歳の甥の養育まで引き受けるのは大変な事だっただろうと思う。だが、こんなに幸せそうに笑う女性を、ドゥルーススは他に知らない。結い上げた栗色の髪は豊かで、淡い紫色の眸は常に生き生きと輝いている。苦労などまるで知らないかのようだった。

 アウグストゥスの長いノロケが終わると、ルキウスが立ち上がり、乾杯の辞を述べた。

「国父アウグストゥスとリウィアの輝かしい運命と、これからの一層のご多幸とご長命を祈念して」

 ドゥルーススよりも三歳年長のルキウスの声は、やや甲高いものに響いた。「乾杯」の唱和と共に、ドゥルーススはしきたり通り床に少しぶどう酒をこぼしてから―――地母神に捧げるためだ―――その杯を干した。



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