第一章 父の帰還(二四) 場面五 共和国(五)
ティベリウスが邸に戻ると、執事のクィントゥスが出迎えた。妻のユリアは相変わらず不在らしく、どこへ行ったのかも判らないという。数多い男友達のところか、それとも実子のガイウスとルキウスのいるアウグストゥスの邸か。ユリアがアグリッパ将軍との間にもうけた三男二女は、アウグストゥスの養子となったガイウスとルキウスはアウグストゥス邸に、三男アグリッパ・ポストゥムスはウィプサーニウス・アグリッパ家を継ぐためにアグリッパ邸におり、娘二人だけがこの邸にいる。そして、ティベリウスが先妻ウィプサーニアとの間にもうけた六歳のドゥルーススがおり、ユリアは本来ならこの三人の養育に当たるべき立場だが、とてもそれを望める女ではない。ティベリウスも最初のうちこそ、さすがに行き先ぐらいは判るようにして出かけるよう注意したこともあったが、聞き入れる様子がないのでとっくに諦めている。
アウグストゥスの一人娘であるユリアは、父によって三度の結婚を強いられた。一人目はアウグストゥスの甥のクラウディウス・マルケッルス、二人目はアウグストゥスの親友のマルクス・アグリッパ、そして現在の夫であるティベリウスだ。互いに十代で、ままごとの延長のうちに夫の死で終わった最初の結婚はともかく、その喪が明けるとすぐに父親と同い年のアグリッパと結婚させられ、アグリッパが死ぬと今度はティベリウスとの結婚を強いられたユリアも、確かに気の毒ではある。だがアグリッパもティベリウスも、このアウグストゥスの一人娘と結婚するために離婚を強制されたのだ。
明らかな政略結婚とはいえ、最初はティベリウスとて努力はした。だが、父に甘やかされ、その後は父と同い年で忠実な臣でもあったアグリッパ将軍に甘やかされたユリアには、質実剛健を旨とする格式高いクラウディウス・ネロ家の家風は我慢できなかった。また社交的で機知に富み、ティベリウスの目には軽々しいとさえ映る気性のユリアと、プライドが高く無口で閉鎖的と囁かれるティベリウスとではまるで水と油で、接点さえ見出せそうになかった。注意すれば反抗し、放っておけば冷たいと詰る妻は、ティベリウスの手には負えなかったのだ。
それでも、アウグストゥスの継子であり右腕でもあるティベリウスには、いかに互いにとって不幸な結婚生活であろうと、続ける以外に選択肢はなかった。「ローマの首席将軍は、第一人者の一人娘との不仲でローマにいられず、北の国境に逃げ込んでいる」「ゲルマニアを制したいなら、ユリアを派遣すればいい。ユリアは将軍を打ち負かしたのだから」―――噂好きの物見高い市民たちが様々に笑う声を、黙ってじっと耐える以外になかったのだ。
不意に、門のほうが騒々しくなる。恐らくユリアが戻ってきたのだろう。相変わらず取り巻きを連れているらしく、男女入り混じった話し声や笑い声が邸の中まで聞こえてくる。夜中だというのに、もう少し静かに帰宅できないのだろうか。ティベリウスはそう思ったが、どうせしたたかに酔って帰ってきたのであろう女に、そんな説教をしたところで無益なことだ。顔を合わせては下手をすると不毛な言い争いになるので、ティベリウスはクィントゥスにその場を任せて奥へ入った。
アウグストゥスは、このローマの繁栄と安定のため、ティベリウスとユリアとの結婚が是非とも必要だと言った。第一人者の一人娘であるユリアを妻とするということは、アウグストゥスの後継者となる事を意味した。親友で片腕であったアグリッパが死んだ時、アウグストゥスはその役割をティベリウスに求めたのだ。アウグストゥスの後を継ぐ事と、父親を失ったガイウスとルキウスの庇護者となる事を。ガイウスとルキウスは、当時七歳と四歳だった。アウグストゥスも、当然彼らを後継者とするなどとは口にしなかった。ティベリウスに、「わたしの親友に代わって、彼らの庇護者となって欲しい」とだけ言ったのだ。
いまだ表向きは共和政体であるローマにおいて、「後継者」を決めることの困難はティベリウスにも判る。本来の共和政下であれば、全ての元老院議員は潜在的な「元老院の第一人者」だ。彼らが互いに覇を争うことになれば、下手をすれば再び内戦の泥沼へと戻ってしまう。それを避ける最も確実な道は、アウグストゥスが初めから後継者を内外に示し、他の人々からその望みを断ってしまう事だ。
ティベリウスは、妻を愛していた。だが、妻とローマを秤にかけることなど出来るはずもない。ティベリウスは妻と離婚し、ユリアと再婚した。
全て、ローマのためだった。だが、そのローマとは一体何だろう。羊の群れと化した元老院議員たち、君主国さながらに「第一人者」の孫にひれ伏す市民たち。ティベリウスや、偉大な父祖たちが身を捧げてきたローマは、果たしてどこへ向かおうとしているのだろうか。