第七章 イムペラトル 場面三 アウグストゥスの焦燥(七)
実際、注意深く観察していれば、反乱軍たちはその勢いを弱めつつあった。彼らは一般民衆の支持を失いつつあったのだ。長引く一方の戦いに疲れ、国土の荒廃で飢えや疫病にさえ悩まされるようになった庶民たちは、戦争の終結を望むようになっていた。反乱軍内部でも、指導者たちの足並みが乱れ始めた。
そもそもローマ軍を悩ませている複雑な地形と、「イリュリア人」と呼ばれるパンノニアとダルマティアの人々の自主独立の気風は、言語も人種も同じ彼らをして、統一国家を形成することすら長く妨げていた。今からおよそ百七十年前、彼らとの戦いに勝利したローマは、最初この地を四つの従属国として支配した。イリュリクムとして一つの属州となったのは、ずっと後のことになる。その彼らが共同戦線を形成して戦うことが出来たのは、皮肉にも彼らがローマの補助兵、もしくは軍団兵としての軍事経験を共有した「成果」だった。彼らはローマから支給される武器を手に、ローマ軍で身につけた戦術の知識を駆使して戦っているのだ。
ローマ市民で形成される軍団兵を核とし、更にそれとほぼ同数の現地の人々を補助軍団して組織して、共に祖国の防衛に当たらせるというローマの戦略は、自らが与えた武器を手に反乱を起こされる危険を常に伴わずにはおかない。それでもローマは、恐らく世界広しといえども他に類を見ないこの方法を捨てることは考えもしなかった。ローマ市民権を持つ人々のみで形成される軍団だけでは、この広大な領土の防衛を担いきれないという現実的な理由は勿論ある。だが、この方法を考案し、実行に移すことができたのは、それがローマ人の考え方と合致していたからだ。血や信仰によってではなく、共存する意思によって「同胞」を選ぶ。敗者でさえ、ローマの覇権を受け入れさえするならば、「ローマ世界」の一員として迎え入れる―――それが、ローマが都市国家の枠を越え、世界に類を見ない世界国家へと変貌を遂げた大きな理由だったのだから。
冬が来る前にティベリウスは東方から来た二軍団を率い、シルウァヌス・プラウティウスを伴ってサーヴァ河北岸の都市シルミウムへと向かった。河の南岸に位置するシスキアから、東へおよそ二百マイル(三百キロ)の行軍だ。春を待って、サーヴァ河とドラーヴァ河に挟まれたこの地域に一気に攻勢をかけるためだった。シルウァヌスにシルミウムでの冬営を指示し、ティベリウスは再びシスキアに戻った。