第七章 イムペラトル 場面二 軍団基地(九)
「「たった一人の男が、寝ずの番をして、我々に国家を取り戻してくれた」」
古い詩の一節を、ドゥルーススはふと呟いた。ティベリウスはドゥルーススに視線を向ける。
「何か言ったか」
「いえ―――」
ドゥルーススは少しためらったが、もう一度繰り返した。暗がりの中、ティベリウスは苦笑したようだった。
この詩で謳われているのは、かつてカルタゴの武将ハンニバルと戦った、クィントゥス・ファビウス・マキシムスだ。その慎重な持久戦術から「グズ男」とさえ言われたが、後には「ローマの盾」と称えられた。執政官を四度、独裁官を一度務め、凱旋式を挙行した。およそ二百年前のローマの英雄だ。これに対して「ローマの剣」と言われたのが、マルクス・クラウディウス・マルケッルス。リウィアや早世したアウグストゥスの甥同様、平民貴族の方のクラウディウスの家系だ。
「………身に余る」
ティベリウスは呟いた。しばらく無言で歩みを進めていたが、不意に言った。
「本国では、わたしの優柔不断を笑っているだろう」
確認するように目線を向けられ、ドゥルーススは口ごもる。ティベリウスは小さく笑った。
「お前は嘘がつけぬ性質だな」
「………すみません。でも」
「謝ることはない」
思いがけず優しい声音に、ドゥルーススは少しムキになって反論した。
「でも、違います。彼らは判っていないだけです。そんなものを気になさる必要はありません。ファビウス・マキシムスでさえ、当時は批判する声があったんです。でも、彼は正しかった。マキシムスは忍耐強く思慮深く戦い続け、そしてついにローマを守り抜きました。
ぼくは今日、軍団兵たちの声を聞きました。みんな父上をほとんど神々のごとく尊敬し、信頼しています。いつか誰もが認めるはずです。父上以上に賢明に戦うことなど、誰にも絶対に出来ないことです。そうでしょう」
ティベリウスは黙っていた。星を眺めるかのように宙に目線を投げたまま、ただゆっくりと歩き続けた。ドゥルーススも並んで歩いた。ややあって、ティベリウスは黙ったまま、ドゥルーススの肩を軽く二度と叩いた。そして何事もなかったように見回りを続けた。ドゥルーススはそれに従った。それはこの地を離れるまでの五日間の日課となった。
サトルニウスは、父に誇りとされ、息子に尊敬されるほど誇らしく名誉なことはないと言った。確かにその通りかもしれない。だが、同時にドゥルーススは思う。人を信頼し、尊敬し、そして愛することほどに、人間として幸福なことがまたとあるだろうか。ましてそれが父でありローマの後継者であれば、これほどに幸運な出会いが他にあるだろうか。温かな思いが胸を満たした。
五日目の朝、ドゥルーススは夜が明けるとすぐに、親衛隊兵たちを率い、軍団兵たちに見送られてシスキアを発った。