第七章 イムペラトル 場面一 苛立ち(一)
「たった一人の男が、寝ずの番をして、我々に国家を取り戻してくれた」
父の陣営を訪れたドゥルーススは、父の背を見つめて歩きながら、思わず「ローマの楯」といわれた英雄を称える古詩を呟く。三年半の長きに及んだ属州の反乱を、ティベリウスは「最小の危険が栄光への道」という信念を貫き、優柔不断と誹られるほどの慎重さで戦い抜いた。
【主な登場人物】
〇バト:イリュリア属州(後のパンノニア・ダルマティア属州)反乱の首謀者。
〇アグリッピナ(BC14頃-AD33):アグリッパ将軍と、アウグゥトゥスの一人娘、ユリアとの間に生まれる。ゲルマニクスの妻。アウグストゥスの直系である事に誇りを持ち、ティベリウスを敵視している。同母の兄にガイウスとルキウス(いずれも故人)、弟にポストゥムス(流刑)、姉のユリッラがいる。
マロブドゥスとの間で協定が成立し、対ダルマティア・パンノニア戦役に対する軍団指揮権を付与されたティベリウスは、持てる力の全てをこの反乱鎮圧に投入できることになった。ティベリウスはマルコマンニ族攻略のために三分していた兵力を再編成した。一部は各地へ派遣され、一部はティベリウス率いる本隊との合流が指示された。そしてティベリウスはメッサラ・メッサリヌスに軍団を率いてシスキア(シサク)へ南下するよう指示した。そして自身はサトルニウスらとの合流を果たした上でカルヌントゥムを出発し、非常に慎重に、ゆっくりした速度でシスキアへ向かった。カルヌントゥムからシスキアまでは、およそ二百マイル(約三百キロ)の道のりだ。
後になって、ティベリウスはこの時の戦いについて、「ティベリウスそのもののやり方で戦い抜いた」と評された。
約二十日間をかけてティベリウスはシスキアに到着し、この地に本営を置いた。シスキアはイリュリクム属州とローマ本国双方をにらむ位置にある。反乱が起こった地域は、アドリア海沿岸からドナウ河の中流・下流域一帯に及んでいた。更に、平野が少なく、山地がちという複雑な地形に、小さな村々が点在しているのがこの地域の特徴だ。地形を知り尽くした反乱軍たちは、共同戦線をとる一方で、そこかしこで小規模なゲリラ戦を繰り広げ、ローマ兵を翻弄した。各地で戦端が開かれ、激戦が繰り広げられた。敗北すれば捕虜になるのではなく、即惨殺される。犠牲になったのは兵士たちばかりではない。一般人も、一夜にしてゲリラ兵に姿を変えた友人や顔見知りの現地の人々に全てを奪われ、虐殺され、犯された。情報は全て刻々と本営に集められ、そこから必要に応じて次々に分遣隊や、指示を携えた使者が急派された。
軍団基地もそれぞれが奮闘した。この初期の混乱のさなか、最も賢明に行動したひとりは、モエシア属州の知事、カエキーナ・セウェルスであったろう。モエシア属州は、ダーウィヌス(ドナウ)河下流を北限に、東に黒海、西に属州イリュリクム、そして南に従属国トラキアと属州マケドニアを睨む地域だ。ローマの覇権を受け入れてまだ二十年余りと日も浅く、更に北からは好戦的なサルマタエ族やダキア王国の侵略の圧力にさらされている、扱いの難しい属州の一つだった。
この属州は、当然軍団の駐屯を必要としており、アウグストゥスの直轄統治の下に置かれていた。四十歳でこの地の知事に任命されたセウェルスは、この地で三年を過ごしている。軍人らしいいかつい容貌ながら、根は陽気で親しみやすい雰囲気を持つこの男は、この地の統治に精力的に取り組み、荒々しい気風のこの地をうまくまとめていた。
ダルマティアに続いて決起したパンノニアのブルシ族は、ローマの要塞都市であるシルミウム(スレムスカ・ミトロヴィカ)に進軍した。セウェルスは、隣の属州の危機を知るや、直ちに軍を率いて救援に駆けつけ、激闘の末にブルシ族を撃退した。だがほっと一息つく間もなく飛び込んできたのは、「ダエシアティス族・ブルシ族同盟軍、アルマ山を占拠」の知らせだった。
セウェルスは、ローマの属国トラキアの王ロエメタルケス率いる騎兵隊を配下においており、これをアルマ山に急派した。そして自身も軍を率いて現地に向かった。ここでもアルマ山の砦を落とし、反乱軍を追い散らしたものの、セウェルスはここに至ってモエシアへの帰還を余儀なくされた。知事の不在に刺激され、ダキア王国やサルマタエ族がダーウィヌス河を越えてモエシア内に侵入し、属州内で略奪行為を働き始めたからだ。一方、敗れたダルマティア反乱軍は、一部は近くの村々に潜伏し、一部は略奪と殺戮を繰り広げながらアドリア海沿いを南下し、マケドニアを目指した。
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【地図3】ローマ北部とその周辺 をご参照下さい。
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