第六章 属州の反乱 場面五 元老院(三)
逆に言えば、ティベリウスにはその権限はないのだ。セイヤヌスはすらすらと言葉を継ぐ。
「ダルマティア反乱の報を聞くや、総司令官は躊躇なく、マルコマンニ一族と友好協定を結ぶことを決断なさいました。戦争を仕掛けている場合ではないと判断なさったのです。本国の指示を仰いでいる時間的余裕もありませんでした。マルコマンニ一族とダルマティア・パンノニアの反乱軍とが手を結ぶことにでもなれば、それこそ一大事です。我々は南北から挟み撃ちにあってしまう。事は一刻を争いましたから」
「それは理解できる。だが―――本当にそんなことが可能だったのか。相手から何か条件を持ち出されなかったのか? それについては何も書かれていないが」
「何も。ただ、王号を承認し、以後ローマがマルコマンニ「王国」を攻めることはないと、それを約束するだけでいいのです。ドゥルースス殿、マロブドゥスは未開の民とはいえ、ローマを知り、政治を知っている。頭のいい男です。彼には、このたびの反乱はまたとない好機に思えたことでしょう。七万の兵力を擁するとはいえ、彼はローマと戦うことがいかに大きな犠牲を伴うか、一度戦って敗れただけによく判っている。この協定は、双方にとってメリットが大きい。成るべくして成ったものなのです」
ドゥルーススは息を吐き出す。成るべくして成ったのだ、というセイヤヌスの言葉は的を射たものだった。父もマロブドゥス族長―――「マロブドゥス王」というべきか―――も、この危機に対して実に的確に振舞ったのだ。
「ドゥルースス殿」
セイヤヌスが共犯者の口調で低く囁いた。
「総司令官はダーウィヌス河を越えたのです。わたしを含む四人の同行者と共に」
ドゥルーススは唖然とした。セイヤヌスはどこか得意げな笑みを浮かべている。
「まさか」
「そう、まさかです。伴を命じられた我々も、まさかと思いました。総司令官は族長を個人的に知っています。十五年程のことだそうですが。そのせいもあるのでしょう、総司令官はこの任務は余人に任せなかった。自ら敵地に乗り込み、族長とじかに話したのです。我々も話の成り行きは知りません。ゲルマン人の取り巻きもわたしたちも残して、族長と総司令官は林の奥へ消えました。我々は雪の中でジリジリしながら待った。ひょっとして、我々は総司令官の首なし死体を持って陣営に帰ることになりはしないか、いやいや、担ぐ我々の首もないかもしれぬ、だが、せめて目を二つとは言わないが一つぐらい残してもらえなければ、方向が判らず迷子になってしまうぞ、などと軽口を叩きながら」
セイヤヌスの声音には、僅かに昂揚が感じられる。そうだろう。ドゥルーススとて、そんな場に立ち会うことが出来れば、彼に劣らず興奮しただろう。そんな交渉の場に随行を許され、またこうして密命を受けてドゥルーススの許へやってきたということは、ティベリウスはこの男をよほど信頼しているに違いなかった。
「わたしは食い意地が張っているから、鼻だけでもいいだろう、朝食の時間には陣営を嗅ぎ当てられるはずだ、などと言われましたよ。当たっていなくもありませんがね」
くだけた調子で言う。言葉こそ丁寧だったが、秘密を共有した共犯者意識のせいか、底には一種の馴れ馴れしさがあった。