第一章 父の帰還(十六) 場面四 弟の死(五)
弟が身体を預けたのが判った。それが一層、ティベリウスの心を締めつける。
「愚か者が………。たとえ二本の脚を共に失ったとしても、わたしがお前の手となり足となるものを。お前が望むままに、馬を駆り、剣を振るい、背に負ってでも戦場を駆けようものを。だが、命を失っては、どうしようがあるというのだ! この、愚か者が!」
激情のままに怒鳴りつける。
「兄上………」
細い声がティベリウスを呼んだ。手が探るようにわずかに動く。ティベリウスはそれを握った。
「ドゥルースス」
「継父上と、母上に、お礼と、お詫びを………」
継父上―――アウグストゥスとリウィアの再婚後に産まれたドゥルーススは、ティベリウスよりもはるかに自然にこの言葉を口にする。
戦場で過ごした長い年月の間に、一体何度、なすすべもなく兵士たちの死を見送ってきただろう。そのたびに、ティベリウスは何も出来なかった。判っていた。死のうとしている。この愛しい者は逝こうとしているのだ。
だが、それでも、祈ってしまう。幾度となく祈り、そのたびに無駄と思い知らされても。どうか神々よ、わたしからこの愛しい者を奪わないでくれと。逝ってしまう。たった一人の、わたしの弟が。
お前は、わたしの半分だったのに。
「兄上」
「言うな。判った」
「アントニアと、子供たちを………」
ティベリウスは弟の言葉を遮った。
「判った。もういい。判ったからもう喋るな。全てわたしに任せろ。何も心配しなくていい。神かけて誓う。お前の大切なものは全て、わたしが守る。約束する」
ドゥルーススはかすかに頬笑んだ。その指に、不意に力がこもる。
「我が―――共和国ローマに栄光あれ」
一息に言った。呼吸が激しくなった。
「兄上………」
ティベリウスは、ドゥルーススの頬を撫でた。その肌は日に焼けて、風雪に曝されてきたためにざらざらしている。戦場で生きた者の頬だった。霞む眸の中に、青白い炎が見える。涙で濡れていた。それは、激しく何かを訴えている。
無念だろう。悔しいだろう。道半ばで、愛しい者たちを残して―――
「約束する」
ティベリウスは、滲む涙を指先で拭ってやった。
「約束する。ドゥルースス。お前はわたしの誇りだ」
ドゥルーススの頬に、ティベリウスの涙が落ちた。ドルーススの唇がかすかに動く。そして―――最後の息が途切れた。ティベリウスは、魂の去った身体をもう一度強く抱いた。将校たちのすすり泣きの声を背中に聞きながら、涙を流した。
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