第六章 属州の反乱 場面五 元老院(二)
驚いたことに、ティベリウスはこの混乱のさなか、マルコマンニ族と友好協定を結んでしまった。表向きはアウグストゥスの指示ということになっていたが、ドゥルーススはその「指示」をアウグストゥスに依頼する、父からの密使を受け取ったのだ。
父からの使者はしばしば日が落ちてからドゥルーススを訪れる。この時も真夜中だった。ローマ市内では、昼間は危険を避けるため、特別の場合を除いて車馬の通行が禁止されていたこともあったし、人目につかないようにという配慮も当然あったことだろう。ドゥルーススは目を覚ましたリウィッラには気にせず休むように言った。
「兄様のことなら、必ず教えてね」
リウィッラは眠たげな声音で囁く。ドゥルーススが「判った」と言って妻の額に軽く唇を触れると、妻は笑みを浮かべて寝返りを打った。
使者としてドゥルーススを訪れたのは、ルキウス・アエミリウス・セイヤヌスという男だった。この男とは、ドゥルーススも父の許で何度も顔を合わせている。父のセイユス・ストラボは騎士階級に属し、長い軍歴をティベリウスの下で勤めた叩き上げの軍人だった。現在もどこかの戦線で軍務に服しているはずだ。
ルキウス・セイヤヌスは淡い金髪と鳶色の眸を持つ細身の美男だったが、その整った容貌とは裏腹に、よく言えば気さくな、悪く言えば放蕩の気配があって、それが一種の近づきやすさにもなっていた。年齢はまだ三十歳前だろう。
ドゥルーススは、こういった場合には自分の私室を使うようになっていた。そこで使者の求めに応じて時に人払いをし、報告を受けた。ドゥルーススはセイヤヌスに掛けるように言い、自身はその向かいに掛けた。
ドゥルーススはセイヤヌスから渡された父の書状を読んだ。このたびの危機に対処するため、マルコマンニ一族との間で友好協定を結びたい、と書状は述べていた。彼らをローマの「友好国」とし、その長であるマロブドゥスに、マルコマンニ王の称号を認めて欲しい、と。
父の言うことは判る。パンノニア・ダルマティアの反乱に対処しながら、マルコマンニ族まで相手にすることの困難は想像を絶する。ましてやイリュリア族に続き、ゲルマン民族までがなしくずしに決起することにでもなれば………
だが、そうとはいっても、比較的にしても親ローマであったマルコマンニ族を、今にも攻撃しようとしていたのがローマなのだ。そう簡単に協定など結べるとは思えない。
「判った。明朝すぐにアウグストゥスにこのことは伝えよう。だが………本当にここだけの話、個人的な疑問を述べさせてもらうなら、マルコマンニ族を納得させられるのだろうか。大体、父はマルコマンニ一族制圧の総司令官だぞ」
セイヤヌスは頬に笑みを浮かべ、僅かに身を乗り出した。
「その書状は、表向きの話です」
重要な打ち明け話をする口調で言う。ドゥルーススは眉を寄せた。
「どういう意味だ」
「既に協定は成立しております」
ドゥルーススは目を瞠る。セイヤヌスはどこかドゥルーススの反応を楽しむような口調で続けた。
「アウグストゥスにはただ承認していただくだけでいいのです。マルコマンニ一族と非戦の協定を結ぶ権限は、アウグストゥス並びに元老院にありますから」