第六章 属州の反乱 場面四 族長マロブドゥス(三)
「ムシのいい話なのは承知している」
「それは、本国の指示か」
「違う」
短い沈黙がある。
「越権行為だな」
マロブドゥスはティベリウスの眸を見て言った。
「君は我々と、戦わずして協定を結ぶ権限はないはずだ。違うか?」
ティベリウスは黙って頷く。この族長は、並みのローマ人よりも余程ローマの事情に通じている。ティベリウスは、あくまでもマルコマンニ一族攻略の総司令官であって、この部族を攻めるか攻めないかの判断を下す権限は与えられていない。
「友好云々の話も、君の一存ということだ」
「その通りだ」
マロブドゥスは天を仰ぐ。吐き出す白い息が、澄み切った冬の大気に揺らめいた。気温はぐんぐんと下がり続けている。足先も顔も痺れるように冷たい。
「ティベリウス」
族長は静かに言った。
「パンノニアが決起した。知っているか?」
「―――」
ティベリウスは唇を強く結んだ。
予想はしていた。だが、やはり現実にそう告げられると、平静ではいられない。
マロブドゥスは腰に下げた小さな皮袋から折りたたんだ紙を取り出し、それを広げてティベリウスに渡した。
「ブルシ族がシルミウム(スレムスカ・ミトロヴィカ)へ向かっている。我々にも共に戦おうと言ってきた。ローマの覇権を許してはならない。満ち足りることを知らない貪欲なローマ人がいる限り、我々に安住の地はないと。ダルマティアからはとっくに檄文を受け取っている」
ラテン語で書かれた檄文は、高揚した調子で呼びかけていた。「ゲルマン民族の雄、マルコマンニ王首長マロブドゥスよ。我々全ての自由のため、今こそ共に戦おう。………」。
マロブドゥスは笑った。
「君の首は最高の手土産だ」
ティベリウスはマロブドゥスを見つめる。
「わたしを信じてくれるか」
「………つくづく、君は怖いな」
マロブドゥスは、ティベリウスの問いに直接には答えずそう言った。
「ダルマティアのバトから檄文を受け取ってからほとんど間をおかずに、君から会見の申し入れがあった。攻め込もうとしていた敵地に数人で乗り込んでくるクソ度胸もさることながら、行動の早さと決断力は、まさにローマで君に散々聞かされたクラウディウス一族そのものだな」
マロブドゥスは愉快そうに言う。
「友好協定はこちらとしても望むところだ。せっかくの機会だ。せいぜい利用させてもらおう。だが援軍は出さない。それでもいいか」
今にも攻め込もうとしていた部族から援軍を期待できるとは、ティベリウスも考えてはいなかった。このゲルマンの有力部族が親ローマの立場を維持してくれるだけでも、ゲルマニアへの心理的効果は大きい。
「それで十分だ。感謝する」
「礼を言われる筋合いはないな。何も好意でこんなことを言っているわけではない。イリュリア人どもが君たちローマに打ち勝てると思うほど、わたしは世情に暗くないだけだ。反乱軍にやられる君か」
マロブドゥスはにっと笑った。
「ゲルマニアは、神の子アウグストゥス率いるローマの威光などに屈したのではない。ひとりの将軍、ティベリウス・ユリウス・カエサルの卓越した実力の前に膝を折ったのだ。それが我々だ」