第六章 属州の反乱 場面四 族長マロブドゥス(一)
マロブドゥスは木々の間を縫うようにして進んだ。少し前を行くフラウスの手にある松明の炎だけが唯一の灯りだった。積雪は深く、膝の辺りまで足が沈み込んでしまう。
「フラウス!」
マロブドゥスが息子を呼び、ゲルマン語で何か言った。青年からも短いゲルマン語が返ってくる。マロブドゥスがペースを緩めたのが判った。雪に不慣れなティベリウスに気を遣ったのだろう。
不意にフラウスが立ち止まり、マロブドゥスも足を止めた。
かすかに水の香りがした。沼地ではなく、一応は湖のようだ。だが、それほど大きくはない。うっそうとした木々がここでは途切れ、空にかかる月と一面の星が望めた。
来た道はとうに判らない。ここで置き去りにされれば戻ることは出来ないだろう。ふとそう思ったのを読んだように、マロブドゥスはラテン語で言った。
「ここで置き去りにすれば、ローマ軍は総司令官を失うな」
この男のラテン語を聞くのは、およそ十五年ぶりになる。ほとんど訛りもなく滑らかだった。
「最高司令官アウグストゥスがいる限り、ローマが総司令官を失うことはない。わたしが戻らなくても、また新たに任命されるだけだ」
マロブドゥスは湖の周囲をゆっくりと歩いた。ティベリウスも後に従う。
「では言い換えよう。君が戻らなければ、ローマは稀代の凱旋将軍を失う」
「過分の言葉だ。わたしは一介の指揮官に過ぎない」
「謙遜はかえって侮辱だ、ティベリウス。君は二度、ゲルマニアを征した」
ティベリウスは口を噤んだ。
「十五年にはなるな」
マロブドゥスは歩みを止めずに言う。
「ああ」
「ティベリウス・ユリウス・カエサルか」
ティベリウスは黙っていた。
「生粋のクラウディウスと言われた君が、まさかユリウス・カエサルを名乗るとはな」
人質としてローマにいた頃、マロブドゥスはローマの歴史にも関心を持っていた。史書に何度も登場するクラウディウス一門についても、ティベリウスとの間で何度となく話題に上ったものだった。幼少時から将来のクラウディウス・ネロ家の長としての自覚を叩き込まれていたティベリウスを、アウグストゥスは「小さなクラウディウス」と呼んでからかった。子供らしからぬ子供だと、どこか手をつけかねていたのだろうと思う。