第一章 父の帰還(十五) 場面四 弟の死(四)
雪の山野を、ティベリウスは一昼夜で駆け抜けた。ティベリウスの愛馬は、主人の逸る心を察したかのように険しい山を駆け抜け、陣営内に駆け込んで膝から雪の上に崩れた。その前肢はなおも駆け続けようとするかのように宙を掻き、口から洩れる泡と息が凍った雪を溶かしていた。
モグンティアクムの陣営は雪に埋もれ、しんと静まり返っていた。北の国の寒さを肌で感じる。ティベリウスの姿を眼にした軍団兵たちは、一様に眼を瞠り、それから沈痛な面持ちで頭を垂れた―――
ティベリウスは司令官宿舎に入った。簡素な寝台を、軍団の主だった面々が取り囲んでいる。彼らもまたティベリウスの姿に眼を瞠った。
「ネロ殿―――」
「本当にティキヌムから、もうここまで?」
囁きが室内に満ちる。
ティベリウスは年長者に礼を尽くして―――総司令官という立場であっても、三十三歳のティベリウスにせよ、二十九歳のドゥルーススにせよ、司令部では最年少といってよかった―――無言で深く頭を下げた。相手もまた頭を下げ、それから潮が引くようにティベリウスに道を空ける。
ティベリウスは寝台に歩み寄り、横たわった弟の手を握った。手のひらは熱く、じっとりと汗ばんでいた。
「ドゥルースス」
必死で呼びかける。
「ドゥルースス、わたしだ。気をしっかりもて」
ティベリウスは、頬に手をあてる。
「ドゥルースス」
ゆっくりと瞼が開いた。眩しそうに瞬きをしてから、わずかに視線が宙をさまよう。そしてティベリウスを捉えたのが判った。
「ドゥルースス」
「兄上………?」
少しあって、口許がかすかに緩んだ。
「間に合った………」
吐息のようにドゥルーススは囁く。
「神々よ……」
ドゥルーススは室内を見ようとしたようだった。
「もう………何も心配することはない」
背後で嗚咽が洩れる。
「馬鹿者」
ティベリウスは必死に言った。
「しっかりしろ、こんなことで」
汗ばんだ手のひら、血の気を失った頬。落ち窪んだ眼窩に、霞むばかりの眸。乾いた唇から洩れる、掠れた声。
急に胸が詰まった。ティベリウスは毛布ごと、弟の身体をきつく抱いた。身体に帯びた甲冑が、弟の身に当たるのを怖れて。
「ドゥルースス、大丈夫だ」
ドゥルーススはかすかにかぶりを振った。ティベリウスは唇を噛む。
「この………愚か者がっ………!」
歯ぎしりせんばかりの口調になった。
「何故、すぐに処置しなかった」
ドゥルースス。わたしの大切な、たった一人の血を分けた弟。
どんなに、わたしがお前を愛したか―――