第六章 属州の反乱 場面三 森の民(一)
闇の中、小舟は水面を滑ってゆく。聞こえてくるのは櫂が船体と触れ合う鈍い音と、水の音だけだ。松明の明かりが、重苦しい表情の五人の男たちの顔に陰影を作りだしている。皆、羊毛の外套ですっぽりと身体を包んでいた。それでも、むき出しの頬や指先は痺れるような冷たさだった。
船が岸辺に着くと、イリュリクム属州で総督補佐官を務めるドミティウス・アエノバルブスは、持っていた手提げランプをセイヤヌスに渡し、無言で船から下りて船の端を掴んだ。アプロニウスがランプを掲げて船を降り、ティベリウスはそれに続く。軍靴が膝下まで雪に沈み込む。セイヤヌスとアッティクスが雪に足を踏み入れ、全員が降りると、ドミティウスは舟を岸辺に引き上げた。
時刻はまだ夜第二時(八時)にもなっていないだろう。五人は夕食も摂らずに陣営を発ち、船の中で乾パンと水で割った下等ワイン、そしてセイヤヌスがちゃっかり持参して皆に配ったチーズとベーコンを少し腹に収めただけだった。ティベリウスは目の前に黒々と広がるダーウィヌス河と、真っ暗な対岸を見た。勤勉な兵士たちも、今頃は夢の中だろうか。同行してきた四人は一様に緊張した表情で、それでもティベリウスを守るように左右に分かれ、無言で歩みを進める。
一面の雪が月光に輝き、青白い光を放っている。
「総司令官殿」
セイヤヌスが囁いた。ティベリウスはちょっと頷く。
林の木々の間に、明かりがひとつ揺らめいていた。それが、見る見るうちに数が増えていく。
ティベリウスは手振りで全員を立ち止まらせた。アプロニウスはさりげなくティベリウスの前に立ち、鋭い眼差しで木々の間の明かりを見つめた。
ティベリウスはじっと待った。足先から痺れるような寒さが伝わってくる。
不意に、林から男の声がした。ゲルマンの言葉だ。意味は判らない。短い言葉が交わされ、続いてどっと笑う声。明らかに二十人近くはいる。それに続いて聴こえた男の声には、確かに聞き覚えがあった。言葉はやはりゲルマン語だ。その後にも誰かが何かを言い、再び笑い声が起こった。
「この雪の中で肌をさらすとは、相変わらずローマ人は融通が利かないと」
ドミティウスが傍らで言った。ドミティウスはゲルマン人だ。父が補助軍団に参加してローマ市民権を得たため、彼自身もローマ市民権を持っている。
「誰かが「あれが文明の民だ」と言っています。族長かもしれません」
ティベリウスは頷く。ゲルマン人は一般にズボンを穿く。この時期なら長袖の羊毛の短衣を重ね着し、場合によっては毛皮をまとう。下は厚手のズボンを穿く。逆に夏は平気で上半身裸になってしまう。そういう意味では彼らの方がよほど理に適ってはいる。ローマ人は伝統的に長袖やズボンをまとう習慣を持たず、半袖の短衣が基本だ。確かにローマ軍兵士もそれなりに現地に適応するので、半ズボンをはいたり(騎兵は長ズボンをはく)、ゲートルを巻いたりと工夫はする。今回同行した五人の中でも、ゲルマン人であるドミティウスや、指揮官ではなく「参謀」であるセイヤヌスなどは長ズボン姿だ。だが、どうしても長袖は女性のもの、ズボンは蛮族のものという認識があるため、将校クラスほど基本に忠実になる傾向がある。雪の中だろうが砂漠の中だろうが、膝と二の腕をむき出しにする―――それが「文明の民」なのだと言われれば、確かに文明とは不自然なものに違いなかった。