第一章 父の帰還(十三) 場面四 弟の死(二)
建国暦七四四年(紀元前九年)、十一月初旬―――
ティベリウスはパドゥス河北岸の冬営地、ティキヌムにいた。ティベリウスに与えられた任務は、総司令官として軍を率い、ローマの北の国境線の一つ、黒海へ注ぐ大河ダーウィヌス河の防衛線を確立することだった。
現在、ダーウィヌス河以南は、一応はローマの支配下にある。だがローマ本国の北限であるアルプス山脈以南はともかく、山脈とダーウィヌス河との間に挟まれた地域では反乱が絶えなかった。三年前、ティベリウスはダーウィヌス河とサーヴァ河に挟まれた、パンノニア地方を制した。だが、翌年、アドリア海東岸一帯に広がるダルマティア地方で大規模な反乱が起こり、その鎮圧に向かえば、その隙をついてパンノニアで反乱が勃発する、という状態だったから、春と夏の戦闘期、ティベリウスは常にその鎮圧に奔走していた。
ティキヌムの冬営地は、一個軍団―――約六千人を収容する。縦三百パッスス(約五百メートル)、幅二五〇パッスス(約四百メートル)に及ぶ長方形の空間で、石造りの壁に囲まれた堅牢な要塞だ。中には司令部・陣営本部(司令官宿舎)・一般兵舎・穀物倉・武器庫・医療棟などの建物が整然と並んでおり、東西に第一道路、そしてそれに直角に交わる形で主要道路が通っている。
ティベリウスはその時、司令官宿舎内の一室で、軍団副司令官のロンギヌスと共に、二人の百人隊長から報告を受けている最中だった。そこへ、兵士の一人が入ってきた。ゲルマニア戦線からの急使が到着したと言う。
胸騒ぎがした。それも当然だった。ダーウィヌス河戦線と、ドゥルーススが総指揮官を務めるレーヌス河のゲルマニア戦線は、それぞれ独立して軍事行動を行っている。それを敢えて使者を送ってきたとなると、容易ならざる事態だとは聞かずとも判る。
使者はすぐに通された。
三十代半ばかと見えた。ここへ辿りつくまでに四、五日はかかったのだろうか。疲労のためだろう、眼の下は隈で黒ずみ、甲冑の下の衣服は濡れているのが判った。
男は敬礼してから、第十七軍団、第三大隊所属、フラウィウス・ニゲルと名乗った。
「モグンティアクムから参りました」
そこまでは、少し掠れてはいても、軍人らしいきびきびとした口調でフラウィウスは言った。だが、使者はティベリウスを見つめ、数度口を開きかけたが、再びぎゅっと口を結んだ。ティベリウスはそのまま、しばらく相手の言葉を待った。嫌な沈黙が室内を支配する。痺れを切らしたようにロンギヌスがそれを破った。
「フラウィウス、報告を」
フラウィウスの唇が震えた。
「総司令官殿が―――」
絞りだすように言い、絶句する。
「フラウィウス」
ティベリウスは口を開いた。口調は余裕を失っていたかもしれない。
「総司令官がどうした。何があった」
使者の両の眼から、どっと涙が溢れた。
「ご重態、です……!」
瞬間、目の前が暗くなった。ロンギヌスも百人隊長も、一斉にティベリウスを見たのが判る。ロンギヌスは努めて平静を保とうとしている様子で尋ねた。
「何があった? 総司令官殿は既にレーヌス河沿いの冬営地へと撤退を進めておられたのではないのか」
「馬が野犬に驚いて二本立ちになり、岩の上に投げ出されたんです。その時に脚に負った傷と骨折で、容態は次第に悪化し―――」
ティベリウスは蹴り上げるようにして席を立った。
「軍医は何をしていた。脚の傷が毒を持ったのなら、切断するなり方法はあったはずだ」
「勿論、軍医も幕僚の方々も強くそう勧めました。ですが、将軍がお許しにならなかった。脚を失って、この先どうなると―――」
「愚か者が!」
ティベリウスは相手の言葉を遮って怒鳴った。その場にいた全員が縮み上がる。ティベリウスは両の拳を、卓上に叩きつけた。
「脚を惜しんで命を失う愚か者があるかっ!」
しん、となった。呼吸の音さえ聞こえそうだった。
ティベリウスは拳を握り締めた。言葉が出てこない。
ドゥルースス。
誇り高い、わたしのドゥルースス。