第五章 ゲルマニア戦役 場面三 ポストゥムス(五)
ドゥルーススは入り口をくぐり、ここの主人、アンティゴノスに取り次いで欲しい、と言った。しばらく待たされ、ドゥルーススはニゲルと共に中へと案内された。壁面には鮮やかな色彩で、ギリシアの神話を題材にした絵が一面に書かれている。
ギリシア風の名前を持つアンティゴノスは、黒い髪に、黒々としたあごひげを蓄えた五十歳ばかりの男だった。恰幅のいい身体に東方風のゆったりした長い衣装を身につけ、椅子に腰を下ろしていたが、ドゥルーススが入っていくと立ち上がった。ドゥルーススは丁寧にお辞儀をし、真面目な口調で言った。
「アンティゴノス殿だな。ドゥルースス・カエサルだ」
主人は浅黒い肌に薄い笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります。驚きましたな。ユリウス・カエサル家の御曹司をお迎えするとは」
「ぼくで二人目だろう」
言うと、主人は椅子に掛けながら言った。
「三人目ですよ」
背後でニゲルが微かに笑ったのが判る。では一人は、恐らくガイウス・カエサルなのだろう。
「ポストゥムスは、まだここにいるのか」
「ええ―――」
アンティゴノスは頬に笑みを浮かべたままだ。だが、目は笑っておらず、何を考えているのかよく判らなかった。
「連れ戻しに来られたんですかな」
「そうだ」
「助かりますよ。あの方のご身分を考えると、むげに追い出すというわけにもゆきません。この辺りの娼館は、みんな困ってますよ。踏み倒されるんじゃないかとね」
ドゥルーススはじっと主人を見た。
「金は持ってきた。だが、まずはポストゥムスに会いたい。部屋を教えてくれ」
「二階の一番奥の部屋です」
「判った」
ドゥルーススは踵を返した。ニゲルは影のようについてくる。木製の狭い階段を上がり、ドゥルーススは一番奥の部屋をノックした。返事はなかった。
「ポストゥムス、ぼくだ」
ドゥルーススはなおも少し待った。ひょっとするとコトに及んでいる最中かもしれないし、だとするといきなり踏み込むのも躊躇われたからだった。だが、中からは物音ひとつ聴こえてこない。左横の部屋には既に「客」が入っているらしく、聴こえてくる女のか細いあえぎ声がドゥルーススを落ち着かない気分にさせた。よくこんなミツバチの巣のように並んだ小さな部屋の中で、隣にいる見知らぬ人々の存在もはばからずにセックスなどできるものだと思う。
ドゥルーススはもう一度扉を叩いた。
「ポストゥムス、入るぞ」
仕方なくそう言って、ドゥルーススはニゲルを廊下に残して中に入った。入った瞬間、酒と汗と体臭が交じり合ったようなよどんだ臭いが鼻先をかすめた。
狭い部屋だった。ひょっとすると娼館の部屋としては広いのかもしれないが、天井も低く、圧迫感がある。片隅に立つ、人の背の高さほどの燭台の明かりだけが静かに揺らめき、壁面に描かれた睦み会う男女の絵を照らし出していた。
寝台にいた人間がごそごそと動く気配がして、低い声が何かを囁いた。忍び笑いが聴こえる。よく見ると、狭い寝台に三人の人間がひしめき合っているのが判った。