第五章 ゲルマニア戦役 場面三 ポストゥムス(四)
「………ありがとう」
ドゥルーススが言うと、ニゲルは苦笑を浮かべる。
「いちいち相手をしていたら、目的地にたどり着く前に夜が明けますよ」
「そうだな」
「女を買いに来たことは? 男でも結構ですが」
ドゥルーススは苦笑する。
「男も女も買ったことはないよ」
「興味ありませんか」
「ないわけでもないけど………」
ドゥルーススは言葉を濁した。その種の「遊び」は苦手だ。十四歳の妻ともまだ共寝するまでに至っていないし、結局ドゥルーススの「女性経験」は、結局、邸の女奴隷相手に限られる。それも、大して経験はない。ニゲルは肩を竦める。
「あなたは父君に似てお堅いと、ガイウス様が話しておられましたが。先刻も、フルネームを堂々と名乗るのではないかと、少しヒヤッといたしましたよ」
笑い混じりに言った。少し懐かしげな響きがある。
「ガイウスは、君にはいい主人だった?」
尋ねると、ニゲルはわずかに眉を上げる。
「奴隷は、主人に不利な証言をすることは許されていませんが?」
皮肉ではなく、軽口めいた口調でそんなことを言ってから、少し間をおいて、ニゲルは続けた。
「ガイウス様は、わたしにも女をあてがってくれました。飲みにくり出した時は、酒も料理も皆に振舞ってくれましたし、機嫌のいい時は、店中の人間に大盤振る舞いしたりすることもありました。楽しみを皆で共有し、人を喜ばせることが何よりも好きなお方でした」
路地からまた別の女がドゥルーススの袖を引いたが、今度は適当にやりすごした。一人きりで、または連れ立って大声で話しながら道を歩く男たちが、店の中に吸い込まれていく姿が見える。もちろん娼館ばかり並んでいるわけではなく、アフリカやシュリアの踊り子たちが舞を披露するような少々品のない飲み屋や、レストランなども軒を並べている。塀には多くの落書きがあった。中には人を呪う言葉もあって、ドゥルーススを少しぎょっとさせた。眺めるともなく眺めながら、ドゥルーススはニゲルの言葉を聞いていた。
そうだ。ガイウスは確かにそんな男だった。陽気で気まぐれで、派手好きで、どこか東方君主のようなところがあった。孤独に弱く、いつも多くの取り巻きを引き連れ、人目を引かずにはいられなかった男。アウグストゥスの孫として生まれたことは、彼にはかえって不幸だったのではないだろうか。失敗にも逆境にも弱いガイウスは、気の毒だが軍団司令官の器ではなかった。
「ぼくにも、ガイウスは結構よくしてくれたんだ。父のことはぼくの前では絶対に口にしなかったけど、ぼくには優しかった」
ドゥルーススがぽつりと言うと、ニゲルは微笑する。
「ガイウス様は、あなたを年の離れた弟のように思っていましたよ。ちょっときわどい話をしてやったら真っ赤になっていたとか、ゲルマニクス様に丸め込まれて二人分の課題をやらされたり、荷物を持っていかされたり、ああ度々なのにあいつは腹が立たないんだろうかとか、よく笑い混じりに話していました。あなたをこういう場所へ連れて行くのを楽しみにしていたんですよ。あいつは世間ずれしてないから、おれがたっぷり教えてやるんだと言って」
ドゥルーススは赤くなった。
「………知らなかった」
「図らずも、あの方の遺志を実行する形になりましたね。―――ほら、あそこの建物ですよ」
ニゲルが指差した先には、一見しただけでは娼館とは判らないような、五階建ての建物があった。