第五章 ゲルマニア戦役 場面三 ポストゥムス(三)
パラティウムの丘とは違い、ここに立ち並ぶのは主にインスラと呼ばれる四、五階建ての集合住宅だ。集合住宅の住人たちが投げ落とすごみや汚物を避けながら―――上から降ってくるものも、路上に溜まっているものもだ―――、ドゥルーススは人ごみの中を歩いていった。パラティウムとは何という違いだろう。こんなところでの生活がどんなものなのか、生まれた時からパラティウムで暮らすドゥルーススには正直なところ実感がわかなかった。
ここで生まれた者、様々な野心や希望を抱いて「黄金の都」に流れ込んできた者―――人種も国籍も様々な彼らの多くは、ここスブッラに小さな部屋を借り、不自由に耐えながら成功を夢見る。一階は大抵酒屋やパン屋といった大小さまざまな商店が軒を連ねており、昼となく夜となくさぞ騒がしいことだろう。もちろんドゥルーススとて何も邸宅を構える裕福な人々とばかり付き合っているわけでもなく、この種の集合住宅に友人を訪ねることもあるのだが、その時しみじみ思ったのは、歯医者の家の上に住むのだけはごめんだ、ということだった。ペンチで歯を引っこ抜かれる患者たちの悲鳴が一日に何度も聞こえてくる中で生活するなど、ドゥルーススでなくてもぞっとするだろう。友人は「慣れだよ」と平然としていたが、とても落ち着いて会話などできたものではない。早々に「浴場にでも行こう」と友人を引っ張り出したのだった。
友人の部屋は二階にあった。通行人や商店の喧騒に近いという欠点はあっても、二階はまだ部屋も広めで、住環境としてはまだましな方なのだ。トイレも水道も全て一階にしかないのだから。それでも、夏の暑さの中でもふっと気持ちを和ませる優しい西風もなく、気分転換にそぞろ歩ける庭もなく、目に優しい果樹園の緑もなく、ひたすら人々の喧騒の中で暮らすというのは、一体どんなものなのだろう。
ドゥルーススはニゲルに続き、細い路地に入った。周囲は既に薄暗い。商店が立ち並んでいた辺りとは雰囲気も変わってきた。
「お兄さん」
建物の入口から、女の声がした。足を止めて眼を向けると、三人の女が扉や壁にもたれ、頬笑みながらこちらを見つめている。一人がドゥルーススに歩み寄り、細い腕でドゥルーススの腕を取った。
「寄っていってよ」
まだ少女といっていい年だ。それでも化粧をした顔で媚びるようにドゥルーススを見上げながら、作り声で囁く。
「うちは美人ぞろいよ。「ウェッティの店」っていえば、この辺じゃ有名なの。聞いたことない?」
「ごめん、先約があるんだよ」
ドゥルーススの真面目な口調がおかしかったのか、女はちょっと唇を上げて笑った。
「あなた、この辺は初めて?」
「そう見えるかな」
「見えるわ。あたしはナキア。あなたは?」
「ドゥルースス」
「図書館にでも行くような顔ね。どこから来たの?」
「ドゥルースス様」
ニゲルが割って入った。
「遅くなります」
「ああ、ごめん」
「あなた、ギリシア系ね?」
女は言った。ニゲルはドゥルーススの肩に手を置きながら女を見る。
「ああ。君はシュリア人かい?」
「あらすごい。そうよ。母がヘリオポリスの生まれなの。どうして判ったの?」
「名前がシュリア風だ。ヘリオポリス―――神様の町だな。今日は本当に先を急ぐんだ。また来るよ、ナキア」
ヘリオスはギリシアの神話で太陽神―――ローマでいうソル神のことだ。ニゲルはナキアの髪に軽く指を絡めてから、ドゥルーススを促して歩き始めた。