第五章 ゲルマニア戦役 場面一 北へ(二)
アルプス山脈を越えた夜、ティベリウスは常のごとく一人で天幕を出た。そこへ、背後から声がかかった。
「総司令官殿」
ティベリウスは振り向いてサトルニウスの姿を見とめ、少し会釈してから応じた。
「何か」
サトルニウスは穏やかに微笑する。アウグストゥスと同世代のサトルニウスだったが、アウグストゥスよりもはるかに若く見えた。背はティベリウスより少し低いぐらいで―――といっても、ティベリウスは標準よりもかなり高いので、ローマ人の標準からすれば高いほうだ―――、がっしりした体つきをしている。眉は長く、白金髪ゆえに白髪も目立たない頭髪は豊かだった。振る舞いには重みがあり、強い意志を感じさせるが、それでいて表情は生き生きとして、ある種の気さくさを持ち合わせている。
「どちらへおいでか」
「少し、宿営地内を見てこようと」
答えると、サトルニウスは言った。
「ご一緒しても?」
願ってもないことだった。
「よろしければ是非に」
サトルニウスは微笑してティベリウスに肩を並べた。
サトルニウスはいい随伴者だった。その後も、何度となくティベリウスはこの副官と共に陣営内を回ったが、よほどのくだけた席でなければ元来聞き役になることの多いティベリウスが、この男を相手にすると案外と話し手に回ることが出来た。九年もの間軍隊生活から遠ざかっていたティベリウスのほうが、話したいことや尋ねたいことを色々と抱えていたことは確かだ。だが、それらを意外なほど率直に開いて見せることが出来たのは、この老将の「懐の深さ」とでも言うべきもののおかげであるように思える。
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ティベリウスがこの男に、ゲルマニアで副司令官として軍を率いて頂きたい、と打診した時、サトルニウスはさすがに少し驚いたようにわずかに眼を見開いたが、その顔にはすぐにどこか鷹揚な頬笑みが浮かんだ。
「あなたが戯れを言われる方ではないことは十分承知しておりますが。本当にこの老人をゲルマニア制圧の副官にと?」
「あなたは属州統治の経験も豊かで、軍団兵たちの信頼も厚い。そして、ゲルマニアを肌で知っている数少ない方の一人だ。今回の制圧行が容易なものではないこともよくご承知のことと思うが、是非お力をお貸し頂きたい」
サトルニウスは頬笑みを浮かべたまま、ちょっと頷いた。
「喜んで。引退前にひと踏ん張りですな」
おっとりと言った。サトルニウスは趣味人としても有名なのだ。奢侈を批判する声もなくはなかったが、品格高い彼の振る舞いは、そんな声に力を与えることはなかった。
人選は成功だったと思う。この副官は、ティベリウスに欠けているものをよく補ってくれた。すなわち快活さと親しみやすさ、というものを。
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