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第一章 父の帰還(十一) 場面三 アントニア(四)

「ティベリウス」

 その声に、ティベリウスは沈思を破られた。ドゥルーススを思うと、ティベリウスの心は重く沈んでしまう。その弟が愛した女は、あくまでも優しい、しかしどこかきっぱりとした口調で言った。

「わたしは、自分で選んでここにいるのよ」

 アントニアの淡い紫色の眸が、真っ直ぐにティベリウスを見つめている。ティベリウスはややあって、少し頷いた。アントニアは頬笑む。

「ドゥルーススのことは、あなたのいいようになさって。ドゥルーススと暮らせるなら、わたしはそのほうが嬉しいのよ。だけど―――ティベリウス」

 アントニアは立ち上がり、ティベリウスの寝椅子の傍らに膝をついた。

「帰国早々にうるさいことを言うのを許してね。でも、ドゥルーススは淋しいのよ。わたしもガイウスも、アウグストゥスも、あなたのお母様も、みんなあの子を愛しているわ。でも、あなたの代わりは誰にも出来ない。父親ですもの」

「責任は果たすが、だが、ドゥルーススはわたしをむしろ憎んでいるよ。こんな勝手な父親なら、かえっていないほうがましだと思っているだろう」

「ティベリウス」

 アントニアはティベリウスの手を取った。短い沈黙がある。それから、アントニアは再び「ティベリウス」と言った。

「わたしも、母と、わたしと姉を棄てた父を憎んだわ。正直に言えば、今も、わたしには父が許せない。父が死んだ時、わたしはまだ子供だったし、ほとんど一緒に暮らした事もなかった。だけど、わたしは父が憎いの。今でも」

 アントニアの声がかすかに掠れた。ティベリウスは半身を起こした。義妹の頬に触れると、アントニアは俯いた。

「忘れたいのに、忘れられない。わたしは父に尋ねたかったわ。どうしてって。たくさんどうしてって尋ねたかった。でも、どうすることもできない。彫像も墓石も答えてはくれないもの」

「アントニア」

 ティベリウスはアントニアの髪を撫でた。

「ドゥルーススに同じ思いをさせないで。あの子だって尋ねたいはずよ。どうしてって。お願いだから答えてあげて。あの子の心に爪を立てたままにしないで」

 アントニアの三歳年長の実姉は、オクタウィアを協定の道具にしてアントニウスと結婚させ、後にはそれを死に追いやったアウグストゥスも、アエギュプトゥス女王に惚れ込んでオクタウィアも娘たちも顧みなかった父も憎んでいると聞く。夫の属州への赴任を口実にローマを離れ、本国にはほとんど姿を見せない。それに対して、アントニアはローマに留まった。ローマに留まり、アウグストゥスの最愛の姉の忘れ形見として、この第一人者の心を慰めている。また、その優しさや快活な気性が、ティベリウスを含め、周囲の者たちの心をどれほど和ませているだろう。

 父が憎いと、そしてドゥルーススに同じ思いをさせるなと言い募る義妹に、ティベリウスにはかける言葉もなかった。自分はドゥルーススを棄てたことで、アントニアの傷口まで引き裂いたのだ。父に棄てられたアントニアが、どんな思いで父に置き去りにされたドゥルーススを見てきたか―――迂闊にも、そんなふうに考えたことはなかった。

 アントニアは顔を上げる。その眼は涙で潤んでいた。だがすぐ再び視線を落とす。小さな肩が、呼吸に合わせて静かに揺れた。短い沈黙がある。

「………ごめんなさい」

 指で軽く眼の縁を押さえ、立ち上がった。

「ごめんなさい、こんな言い方をして」

 ティベリウスも椅子から立ち、背後からアントニアの肩に軽く手を置いた。すまない、と言いかけて、今日何度この言葉を口にしただろう、と思ってやめた。

「責めているのではないの。本当よ。あなたは父とは違う。あなたには時間が必要だと、わたしずっと思っていたもの」

 背を向けたまま、小さな声が言う。ティベリウスはその背をごく軽く抱いた。そうしながら、このままこの義妹を抱きしめて口付けたら、一体どうなるだろう、と場違いな感情を抱いた。

 そうすれば自分たちの関係は、また違ったものになるのかもしれなかった。

 アントニアは身体を預けようとはせず、ただそっとティベリウスの手に触れた。

 ティベリウスは妻と離婚し、アントニアは夫と死別した。形の上では何の障害もない。それぞれ結婚と別離を経験する中でも、常に二人の間には、尊敬と信頼とに支えられた温かい親愛の情が流れ続けていた。

 そして、同じ一人の者を心から愛した。ドゥルーススを。ティベリウスは兄として、アントニアは妻として。

 だがティベリウスは、自分が決してそうはしないだろうということも、判っていた。

 最愛の弟が愛した女だから。アウグストゥスの一人娘との結婚を、やり通す事が出来なかった自分だから。理由はいくつもあった。不幸な結末に終わった二度の結婚が、ティベリウスを臆病にしてもいた。ティベリウスは思い知らされたのだ。自分には、誰かを守りきる事はできない。国のためであれ、自分のためであれ、必要であれば、容赦なく捨て去ってしまう。どんなにその者を愛していても、彼らを守りきるために自分を変えることはできない。

 この優しい女を、その犠牲にはしたくなかった。

「アントニア」

 呼びかけると、アントニアはするりとティベリウスの腕を逃れ、正面から義兄を見て頬笑んだ。

「はい」

「もう休むよ」

「じゃあ、案内させるわ」

 アントニアは言って、部屋の傍らに控えていた女に目配せした。灯りを取りにだろう、女は軽く一礼して部屋から出て行く。義妹のスミレ色の眼には、もう涙も、先刻の翳りさえない。自分はどうなのだろう、と少し思った。この女ほどに、ティベリウスは強くあれるのだろうか。

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