第四章 動き出した時間 場面三 対話(九)
「はい」
短い沈黙が降りる。
「わたしの後継者はゲルマニクスです。それはそれで構いません。ドゥルーススは、ゲルマニクスの助けになれます。もちろん、わたしにとっても。ドゥルーススはカエサル家とローマを支える力になってくれるでしょう」
アウグストゥスは小さく吐息を漏らした。
「あれはいい子だな。聞き分けがよすぎて、時にいささか不憫なほどだ」
「………」
アウグストゥスはカップを取り上げ、一口飲んだ。
「そなたがそう望むなら、それでよい。こちらからもひとつ提案がある。ガイウスが亡くなった今、リウィッラをドゥルーススに娶わせようと考えている。従兄妹同士の結婚になるが、どうだ?」
ティベリウスは少し間をおいて頷いた。
「判りました。ドゥルーススに話をします」
リウィッラをドゥルーススに、そしてアグリッピナをゲルマニクスに。リウィッラもアグリッピナも、共にアウグストゥスの血を受け継いでいる。ティベリウスは、継父の血縁への執着に半ば畏怖さえ覚えていた。そこまで周囲を血縁で固めてしまっては、家門の広がりも逆に限定されるだろうに。他の有力な家系が力を持つことを恐れているのかもしれない。
だが、もはやこの老人の血統観をあれこれと議論している時間はなかった。ことこの問題に関する限り、ティベリウスが何を言ったところで、継父が耳を傾けるとは思えない。もう、他に道はないのだ。継父は六十六歳になっている。今後継者の問題に道筋を与えておかなければ、万一の場合、三十年以上にわたってこの第一人者の下で運営されてきたローマは再び大混乱に陥ってしまう。
それがローマの現実なのだった。「旧きよき時代の共和国」をどんなに懐かしく思っても、「第一人者」であるアウグストゥスの存在なしには、この大国はもう立ちゆかない。
既に真夜中になっていたので、少しだけ話をして今夜は切り上げることにした。アントニアやポストゥムスなど、関わる者たちに話もしなければならない。ポストゥムスにはアウグストゥスが、アントニアやゲルマニクス、ドゥルーススにはティベリウスが話をすると決め、アウグストゥスは邸へ帰っていった。
去り際に、アウグストゥスはティベリウスを抱擁して言った。
「そなたの母が狂喜することだろうな」
「………」
ティベリウスは答えなかった。アウグストゥスは継子の眸を見つめる。
「近いうちにパラティウムに居を移せ。ここは遠い」
「はい」
アウグストゥスには、もはや迷いの片鱗も見られなかった。小柄な第一人者が乗った輿が闇の中に消えるまで、ティベリウスはその場に佇んでいた。それからクィントゥスを呼び、明朝、ドゥルーススをここに呼ぶようにと言った。
もう後戻りは出来ない。運命は動き始めたのだ。