第四章 動き出した時間 場面三 対話(七)
「何故なのだろうな。そなたの眸には、わたしがさぞ話の判らぬ暴君と映っているのだろう。だが、どうかわたしを恨まないでおくれ、ティベリウスよ。わたしはいつでも、そなたを傷つけ、苦しめようとして言っているのではないぞ。そなたをユリアと結婚させた時も、そなたがもっと強硬に申し出を拒否していれば、わたしやリウィアとて考えを変えたかもしれぬ。だが、そなたは少しためらいはしても、我々が予想外なほど抵抗なく話をのんだ。ウィプサーニアとそなたとの結婚は、そなたが九歳の年に、わたしとアグリッパの間で決めたことだ。それほどにそなたがウィプサーニアを愛しているとは、わたしには判らなかったのだ」
「あなたを責めるつもりは毛頭ありません。ウィプサーニアを離縁することを承知したのはこのわたしです」
ティベリウスは目を卓上に落としたまま言った。
「ウィプサーニアを愛していたのなら、断ってもよかったのだ」
そんなはずはない。ティベリウスは思った。後からなら何とでも言える。この継父が、ティベリウスが断ったぐらいで考えを変えたとはとても思えなかった。だが、今更そんな話をしても無益なことだ。ティベリウスは辛うじて言った。
「どうか昔のことを蒸し返すのはやめて下さい。確かに、わたしは妻を愛していた。だが、あなたは、ローマとあなたのために、ユリアとわたしが結婚することが必要だと言った。母上と二人で、そうわたしに説いたはずです。わたしや妻のささやかな幸福と、ローマとあなたの栄光と繁栄とを天秤にかけられると思うほど、わたしは恥を知らぬ人間ではないつもりです。何度同じ選択を迫られてもそうしたでしょうし、後悔もしていません。そしてそのことで、あなたを非難するつもりもありません」
「………」
アウグストゥスは黙っていた。室内に長い沈黙が下りる。ティベリウスは卓上のワインを取り上げ、中身を飲んだ。ドゥルーススとウィプサーニアは、ティベリウスの心を震わせる。無上の喜びと、この上なく深い悲しみ―――余りにも多くのものが、彼らと共にあったのだから。互いが互いの誇りだった最愛の弟は突然にこの世を去り、優しく穏やかな幸福の源であった妻との日々は、自ら断ち切らざるを得なかった。その記憶は絡みつく茨のように、今もティベリウスを去ることはない。
アウグストゥスは嘆息する。
「赦せ、ティベリウス」
再びそう言った。
「この物の判らぬ老人を赦してくれ、ティベリウス。アントニアのことは、わたしはそなたにとってもいい話だと思っていた。そなたがアントニアを信頼しているのはよく判っていたから。むしろ、何か遠慮して、あの娘との結婚を言い出せないのではないかと考えていたのだ」
ティベリウスは顔を上げる。
「アントニアは優れた女性です。あなたの姉君の優しさと聡明さをそのままに受け継いでいる。アントニアを知る者なら、誰もが彼女を信頼するはずだ。あなたもそうでしょう」
アウグストゥスはよく判らない、という表情をしていた。
「だが、あの娘と結婚は出来ないのか」
「できません」
「ドゥルーススの妻だったからか」
「ええ―――」
ティベリウスは答えた。それだけではないと判っていたが、自分でもうまく説明できなかった。アントニアは、ウィプサーニアを除けば、ティベリウスにとって心を許せるほとんど唯一の女性だ。アントニアは、特にドゥルーススを失って以来、ティベリウスの欠けた心の一部になったかのように傍らにいた。ティベリウスは彼女を愛していたし、信頼してもいた。あの義妹がいなければ、ローマでの生活はどれほど味気ないものになったことだろう。だが、それでもティベリウスは、彼女と結婚し、共に幸せになれるとはどうしても考えられなかったのだ。何かが、ティベリウスに警告していた。彼女に触れてはならない。それは、互いの内の何かを壊してしまうと。