第一章 父の帰還(十) 場面三 アントニア(三)
本当に心から、この義妹にすまないと思った。申し訳ない、という気持ちはずっとあった。弟亡き後、兄であるティベリウスがこの家の後見人になっている。現在やっと三十六歳のアントニアは、ティベリウスがローマを去った時には、二十九歳の若さだったのだ。その時には既に両親も夫も亡い状態だった。アウグストゥスの庇護を受けてはいたし、またティベリウスとてロードス島に退いてはいても、邸に残した執事を通し、家長としての責務はきちんと果たしてきたつもりではいる。それでも一家の女主人としてこの邸の采配をふるうのは大変なことだっただろう。使用人の態度などを見てもよく執りしきっている方だとは思うが、どうしても行き届かない方面は出る。
そして何よりも、頼れる者が周囲にいない中で、心細く思うことも多々あったに違いない。表に出さないが、勝気なところがあるこの義妹は、ドゥルーススの成長を報せる折々の書簡の中でも、その種の不安や不満は一言も述べようとはしなかったのだが。
「アントニア」
ティベリウスの呼びかけに、卓上の果物を取り分けていたアントニアは手を止めた。
「本当にすまなかった」
アントニアは微笑する。
「この邸に来てから、何をそう謝っているの?」
明るい声がからかうように尋ねた。この女の明るさや強さは一体どこから来るのだろう。
「ドゥルーススのことも………」
「ドゥルーススはいい子よ。ガイウスとは兄弟みたいなものだわ。小ティベリウスは身体が弱いし、いてくれた方がわたしもガイウスも楽しいの」
アントニアはさらりと言い、ティベリウスの前に林檎の載った皿を置いた。再び長椅子に掛け、少し改まった様子でティベリウスを見る。
「だけど、本当にいいの? ドゥルーススをこの邸に置いたままで。あの子はあなたのたった一人の息子よ。あなたの後継ぎだわ。手許に置いて育てたいのではないの?」
義妹は明るいスミレ色の眸でティベリウスを見つめた。
「淋しくはない? ドゥルーススもそう。戻ってきたのに一緒に暮らさないなんて、きっとあの子も淋しいわ」
ティベリウスは小さくかぶりを振る。少し間をおいて呼びかける。
「アントニア」
「はい」
「再婚はしないのか」
義妹は驚いたようにちょっと眼を瞠ってから、苦笑を浮かべる。
「あなたまでそんなことを仰るの? そんなに追い出したい?」
「そんな意味ではないが………」
ドゥルーススが死に、アントニアは二十六歳の若さで寡婦となった。アウグストゥスの姪であり、しかも亡夫の家柄もよく、夫婦仲は人も羨むほどだった。更に本人の快活で貞淑な優れた資質、莫大な財産、そして子供を産み育てた実績と、どれをとっても、アントニアを妻にと望む人間は多かったはずで、実際、いくつもの再婚話をティベリウスも耳にしている。そのたびにアントニアが断ってきた事も。アウグストゥスはローマ市民の結婚をことさらに推奨し、そのための法律まで様々に整備した男だ。この義妹にも、圧力は色々あっただろうに。
「正直に言って………あなたが見てくれるなら、ドゥルーススのためにもわたしにはそれはとてもありがたい。だが、あなたはまだ若い。この邸に無理に縛りつけたくはない。わたしの勝手な行動で、あなたには本当に負担を掛けてしまったが―――できる限りのことはさせてほしい」
そうだ。ティベリウスは死につつある弟の手を握り、彼の遺志を継ぎ、彼の大切な者たちを守ると約束したのだった。それなのに、結局ティベリウスは全てを捨ててしまった。ドゥルーススは、きっと冥府でこの兄の裏切りを怒っているだろう。
ドゥルースス。大切なお前。ずっと、わたしたちは共に闘ってきたのに。お前を失ってから、もう十一年になる。だが、わたしの心は今でもどこかが欠けたままだ。