隙間
締め切った真っ暗な部屋の中でパソコンだけが唯一の光源として、煌々と青白く光っている。
時間の感覚も、日にちの感覚も、曜日の感覚も締め切られた部屋の中で失われていく。
何も感じないように、隙間なく締め切った部屋のように心も締め切る。
そう。
開けてはいけない。
不意に、隙間なく締め切ったはずの雨戸が激しく叩かれて、私は肩を跳ねさせて硬直した。
目を凝らせば、締め切られた雨戸が不自然にひしゃげていることに気がつくだろう。
まるで、誰かが外から力一杯叩いた跡のように所々窓の方に向かって不自然な凹みが出来ているのだ。
ドンッ ドンドンドンドンドンッ ドドドドドドドンッ
連続する打撃音に、耳を塞ぐ。
叩かれ続けた雨戸は限界近いらしく、軋むような音が混じるのを、私は恐怖に震えながら見つめた。
どうなるのだろう。あれが、開いてしまったら。
まさか来るなんて、思っていなかった。
「おぉーい、いるんだろう? いないのぉー?」
しわがれて裏返った、年寄りのような声が聞こえる。
耳を塞いでも耳元で喚かれているかのような音量で、がなられる。
チラリとパソコンのディスプレイに目をやれば、時刻は午前2時を回っている。
こんな深夜にここまでの騒ぎが起きていれば誰かが起き出しそうなものなのに、誰も起きて来ない、異変に気づかない。
そのことに気づいたのは、この異変が始まってから3回目ぐらいの時だった。
これは、普通の人間がやっていることじゃないのだと、私以外の誰にも分からないのだと、あまりにも無関心過ぎる周りの住人に不安になってお隣さんにそれとなく愚痴をこぼして分かった。
この恐怖を、誰も知らないのだと。
これは、生きている人間の仕業というには、あまりにも異様だということが、分かってしまった。
作られた引越し荷物に目をやり、私は息を詰める。
朝さえ来れば、明日には出て行く予定だ。
この夜さえ越えられれば。
心の中で、祈るように願う。入って来てくれるなと。
最近大人しかったから油断していたのは事実だ。
それでも、今夜来るなんて思ってもみなかった。
「ねぇー。いるんでしょーぅ?」
しわがれた声が、笑う。
狂っていると、そう思った。
既に人間ですらない相手にそんな感想を抱くこと自体がおかしいだろう。
それでも、そう思った。
殺されてしまった女子大生も、こんな風に恐怖に怯えたのだろうか。
だとしたら、苦し過ぎる。
助けを呼んだのだろうか、何を思ったのだろうか。泣き叫んだのだろうか。
なぜ、彼女は悲惨な最期を迎えなければならなかったのだろうか。
なぜ、なぜ、なぜ。
叫び出しそうな感情を、グッと奥歯を噛んで堪える。
泣いても、叫んでも誰も助けてなんてくれないから。
落ちて行きそうな絶望の淵に爪を立てて、抗う。
大丈夫、負けない。気持ちで負けたらきっと終わりだから。
絶望したりなんかしない。
強く握りしめた手に、不意に誰かの手が重ねられたような感触がした。
違和感を感じる間も無く、雨戸が嫌な軋みを立ててそちらに目を凝らす。
そしてとうとう、力任せにこじ開けようと叩いて揺さぶり続けた雨戸と雨戸の間に、僅かな隙間が出来る。
「ああ」
濁った、死んだ魚のような目が隙間から部屋の中を覗き込み。
それがスゥッと細められる。
「やっぱり、いたぁー」
窓越しとは言え、視線が合ったことに私は硬直し。
次の瞬間、震え始めた。
雨戸が引かれた掃き出し窓。
そこには老朽化したベランダがあり、つい先日危険だからと撤去されたばかりなのだ。
だから、そこには足場などなくて、誰かが登って来るはずもない場所なのだ。
今までは、ただ雨戸が叩かれるだけだったのに、ここに来て酷くなっている。
『だから、ケチってオンボロの訳あり物件なんてやめときなって言ったじゃない』
引越しを決めた時に、手伝いがてら溜息と共に友人が吐き出した言葉を思い出す。
もっと真面目に、聴いておけば良かった。
後悔しても、もう遅い。
だって、最初は風が雨戸を叩いているのかと思うような微かな音だった。
それが次には、明らかに叩いていると分かるようになって、不動産屋に駆け込んで知った。
この部屋で以前起きたという事件を。
そう。
この部屋では、人が死んでいるのだ。
ガタッ ガタガタッ ガタガタガタンッ
加害者は、近所に住んでいたらしい老人で、被害者はこの部屋に住んでいた女子大生だったらしい。
2人の間に何があったのか、老人はある日この部屋に押し入り、女子大生を鉈で滅多斬りにして殺害、自分自身も部屋にあった包丁で自殺したという結末の事件だったらしい。
現場は物凄い状態だったにも関わらず、周囲とあまり関わりのない2人が当事者だったせいで、誰もそこに至った経緯を知らなかったらしい。
雨戸を、土気色の筋張った手がこじ開けようとする光景に、私は椅子からずり落ちて床の上をズリズリと後ずさる。
「ぃやぁー!」
思わず上げた悲鳴に、隙間から覗く目がニンマリと笑う。心底、嬉しそうに。
その光景を最後に、私の意識はフツリと途切れた。
「大丈夫だよ」
暗闇の中で、誰かが私に布団を掛ける。
床の上で眠ってしまったのか、とても寒かったから布団の温もりが染み込むような優しさで、私は思わず口元を綻ばせた。
お礼を言いたいのに、とても眠くて目も開かない。
フワリと空気を揺らして、布団を掛けてくれた誰かが枕元に座る気配がする。
微かに香の薫りがして、ああ、側にいるのは若い女性なのかとふと思った。
「あなたのことは、あいつの好きになんかさせない」
強い意志を感じさせる声で言い切ったその人に、なぜか本当に大丈夫なんだと心が温かくなる。
柔らかな仕草で、彼女は布団の上から私をあやすようにポンポンと軽く叩く。
「大丈夫、あなたは私が守るから」
白いほっそりとした手が、何か細長いものを布団に押しつけるように置くのを見るともなしに見ながら、私は今度こそ深い眠りに落ちた。
「うー。痛たた」
雨戸の隙間から差し込む光に、自然と目が覚めて、身体中の痛みに呻いた。
経緯は思い出せないが、床の上にいつの間にか寝ていたらしい。
フローリングの跡があちこちにつき、硬い床の上で寝ていたせいで、身体中が痛い。
「もー、何なのよぅ」
そう言って私は頭に手をやり、言葉を失う。
髪の毛が、何かに千切られたように短くなっている。
慌てて机の引き出しを開け、鏡を取り出す。
震える手でなんとか持った鏡を覗き込む。
「ひっ」
二の腕の半ばまであった髪が、一部分肩につくギリギリぐらいの位置でザックリと切られている。
他も、不自然に短くなっている部分があって、髪の毛がザンギリ状態になっている。
切られたのが髪だけだったことに安堵すれば良いのか、それともザンバラな髪の毛に恐怖すれば良いのか、心の一部が痺れたようになって頭が上手く働かない。
呆然としたまま首を巡らせ、掛け布団に目をやって私は言葉を失った。
掛け布団の上には、棚の上から偶然に落ちたらしい厄除けの札が乗っていて。
掛け布団の周りには。
「引っかき傷……いや、切り傷?と、髪。髪が切られたー? 床がズタズタって……何、これ。え、弁償じゃない?これ、私のせい? でも、私 のせいじゃないよね、訳あり物件のせいだから、大丈夫!」
あまりの惨状に、血の気が引く。
偶然にも、お札が乗った掛け布団に守られたらしく、はみ出ていた部分がザックリと切られているようだ。
もしも、腕か足がはみ出ていたら今頃は。
今頃、私は。
「いや……もう、いやぁ」
鳥肌の治らない腕を擦り、鼻をすする。
もしも、心配した友人が厄除けのお札をもらって来てくれなければ、そのお札が偶然に落ちて掛け布団が結界代わりにならなければ、きっと夜を越せなかった。
ピンポーン。
場違いな程間延びした音で鳴るチャイムに、ビクッと震える。
引越し業者が来たのだと、期待に胸を高鳴らせて私はつまづきそうになりながら玄関に走る。
これでこの恐怖から解き放たれるのだと、それだけで嬉しくて嬉しくて泣きだしそうだった。
鍵にに手を掛けようとして、いつもの癖で覗き穴から外を覗く。
瞬間、私は息を忘れた。
「いぃたぁー」
そこには、死んだ魚のような濁った目が、私を見つめ返していた。
後ずさった私の代わりに、ふわりと人影がどこからか現れて扉にお札を叩きつける。
「こんの、変態ジジイ! 滅びろ!!」
勢い良く啖呵を切ったその背を呆然と見つめる私を振り返って、彼女はにっこりと明るい微笑みを浮かべた。
「とりあえず、今は行ったから。だから大丈夫」
「あの……」
「あなたは、ちゃんと生きていけるから。だから、大丈夫」
その人は透明な笑顔を浮かべて、輝く朝日に溶けるように消えた。
温もりなんてないはずなのに、ふわりと抱きしめられた瞬間、私は確かに温かな何かを彼女からもらったような気がした。
「その節は、本当にありがとうございました」
黒い御影石に手を合わせ、深々と頭を下げる。
食べ物は供えられないから、良い香りの線香を薫せて祈る。
目を閉じればあの透明な笑顔が見えるようで、私はそっと笑みを浮かべてその場を後にした。
私は無事にあの部屋を出て、今も生きている。
当たり前の日常を、退屈で幸せな日常を生きている。
なんちゃってホラーでごめんなさい。