妹の長い話
「家出したいの」
……は?
目の前にあるのは茉莉花の真剣な表情だが、その口から発せられたことは冗談だと思いたくなるもので、戸惑いを隠せない。
「……えっと、茉莉花?」
「私、本気よ?冗談なんかじゃないわ」
…冗談ではないらしい。
先程から変わらない真剣な眼差しは、やはり嘘をついているようには見えない。
それに昔から、茉莉花はめったに嘘をつかない。
「まだお姉ちゃんにしか言ってないんだけど、決めたの、家出するって」
そして昔から、彼女はどこか抜けていた。
普通家出することを皆に公言してから出ていくやつはいないだろう。
この子は家族みんなに家出すると伝えるつもりなのか…
「それでね、明日にしようと思うんだけど、具体的にはどうしたらいいのかわからなくて…」
「ちょ、ちょっと待って!明日!?」
滑らかに進み始めた家出計画の相談にさすがに口を挟むと、ええ、そうよ?と、きょとんとした表情で頷く茉莉花に頭を抱えたくなる。
家出発言にも驚いたが、明日とはまた突飛な話だった。
そもそも明日は茉莉花の入学式だ。
「…えっと、まず、どうして家出したいと思ったの?」
未だ姉の様子に首を傾げている茉莉花に、どう説明したものかと頭を悩ませるが、とりあえず、ゆっくり話を聞くことにした。
「それは…長くなるんだけど、聞いてくれる?」
「ええ、もちろん」
妹の真剣な表情に、どんな話かと身構えた。
「あのね、今日充さんにお買い物に連れて行って頂いたの。私の入学祝いに何か買ってあげると言ってくださったから」
充さんこと西園寺充は、弱冠25歳にして、西園寺グループの跡取り息子として世界中に名を馳せる人物であり、茉莉花の許嫁だ。
10も年が離れているが、西園寺家と鳳家は昔から家族ぐるみの付き合いで、小さい頃から茉莉花を溺愛していた充が大きくなったら結婚するんだと常々言っていたため、いつの間にか公認の許嫁の仲となっていた。
茉莉花が充に惚れている様子は未だかつて見たことも聞いたこともないが。
「それで、充さんにどこへ行きたいか聞かれたから、私、前から興味があった場所にして頂いたの。私達が普段は行かないような、人がたくさんいる街よ。道路の周りにお店がたくさん立ち並んでいて、とても賑やかで、楽しいところだったわ。充さんは初め戸惑っていたようだけど、すぐに気になるお店を見つけたようで、そちらに夢中になっていらしたの。私、最初は付き合っていたんだけど、だんだん退屈になってしまって、お店の間の小道をちょっと探検しようと思ったの。だって、何か楽しいものがあると思ったんだもの。でも、その小道をしばらく行ったら、だんだん怒鳴り声とか何かの物音がしてきて、行ってはいけないと思ったんだけど、近づいて、こっそり物陰から覗いてみたの。そしたら、1人の眼鏡をかけた男性が、2,3人の怖い顔をした男性達に一方的に暴力を振るわれていたの。私、とにかく怪我をしている男性を助けなければいけないと思って、人を呼びに行こうとしたんだけど、怖い男性達に見つかってしまって、捕まえられて、車に乗せられてしまったの。どこに連れていかれるのかわからなくて、怖くて震えていたら、しばらく進んだところで車が止まって、大きな和風のお屋敷の中の一室に連れていかれたわ。ここでおとなしくしてろって言われたから、畳の上におとなしく座っていたらだんだん外が騒がしくなってきて急にふすまが開いて、背の高い怖そうな男性が入ってきたの。私、怒鳴られると思って身構えたら、その方が急に土下座して、こいつらが誘拐みたいな真似してすまなかった、全部俺の責任だ、なんでもするから許してくれないかって謝られたの。本当に、素敵な方だと思ったわ。だから私、その方の連絡先を教えて頂いたの。…えっと、以上よ」
「え…?」
ちょっと待って。
本当に長い長い話を聞いたのに、全然家出の理由がわからない。
「それと、家出が、どういう風に繋がっているの?」
「えっと、つまり、その方、あ、若さんと仰るようなんだけど、その方に恋をしてしまったの。だから、もう充さんとの繋がりを絶たなければいけないと思って、家出しようと考えたんだけど…おかしいかしら?」
…この子は、天使みたいに本当に可愛くて頭も良いのに、どうしてこうもズレているのか…。
まず、きっと若さんというのは本名ではないだろう。
周りの人間がそう呼ぶのを聞いて、勝手にそう判断したに違いない。
それに、話の内容からするとどうも、茉莉花が好きになったのはいわゆる極道の人間のようだった。
そんな人間が茉莉花の話のように、土下座をして謝るとは考えにくい。
たとえ本当にそうしたとしても、演技だった可能性が高いだろう。
これは…どう茉莉花を説得したものか…。
「茉莉花、その、誘拐まがいのことをされたことは、充さんに伝えたの?」
不安げに姉を見つめる茉莉花に言葉を選びながら問いかけた。
「いいえ、伝えていないわ」
そう言って、茉莉花は首を横に振った。
「伝えたらご心配をお掛けするかもしれないし、何より、若さんが怒られてしまうかもしれないもの。あの後若さんの使用人さんが車で街まで送ってくださったんだけど、充さんには街で迷っていたと伝えたわ。このことを話したのは、お姉ちゃんが初めてよ」
少し困ったように眉を下げる妹を傷つけないためには、どう言えばいいのだろう…
「えっとね、茉莉花。家出するとして、どこへ行くつもりなの?」
「それは…」
「まだ決めていないんでしょう?その状態で家を出ても、誰かに連れ戻されるか、本当に誘拐されるかしかない。下手をしたら、死んでしまうかもしれない」
言い淀む妹に、できる限り優しい口調で説得を試みる。
「それに、その、若さん、を好きになったと言っていたけど、その人が本当に今日茉莉花が見たままの人間かなんて、まだ分からないじゃない」
「っ…若さんを疑うの?」
言葉を選んだつもりだったが、茉莉花は驚きと悲しみの交ざった表情で穂乃花を見つめた。
「そういうつもりじゃない!ただ、茉莉花のことが心配だから…」
「嘘!お姉ちゃんは分かってないのよ!会ったこともない方を疑ったりして!」
悲しみを増した表情を浮かべ、茉莉花が珍しく興奮して声を荒げた。
「茉莉花、落ち着いて…」
「落ち着いてなんかいられないわ!」
このままでは発作が起きてしまうと宥めようとするも、茉莉花は聞く耳を持たない。
「茉莉花っ…」
「お姉ちゃんはいつもそうよ!大事なことは全部私に押し付けるくせに、私が頼った時はちっとも味方してくれない!」
「っ…」
「お姉ちゃんなんか、大っ嫌いよ!」
ばたん、と派手な音を立ててドアを荒々しく閉めて茉莉花は去って行った。
発作のことも気になったが、茉莉花に言われた言葉がショックで、追いかけることはできなかった。