プロローグ
天野飛鳥《あまのあすか》はじっと目の前の青年の顔を見つめた。青年の顔は微動だにしない。そのかわりに青年、坂城史郎《さかきしろう》も死んだ魚のような瞳で天野の黒い瞳孔を覗き込んだ。それは天性の才なのか、あるいはたび重なる経験のゆえか、天野のその茶色い目に浮かぶ黒い玉の中は、心の影で満たされ、うごめいていたように坂城は思わされた。彼は知っている、その黒い玉の正体を。それは闇夜より暗く、腑《はらわた》より血生臭く、そしてカップ一杯のエスプレッソより苦いものだと。
わずかに香る桃の匂いはティーカップを口元に近づければより繊細で華やかになる。それは悩みの相談も同様だ。相手に近づけば近づくほど共感も心理状況も得られやすくなる。
「シンパシーもエンパシーも接することから始まる」
坂城のポリシーはいつもそうだった。
赤いソファに腰掛け、猫背で相手との体感距離を狭めつつ、落ち着いた表情で人の話を聞くような姿勢をとる。特に坂城は視線を気遣った。相手に見られていると思わせることでこちらの真剣さを出すことができる。それは何があろうとも不動でなければならない、たとえお茶を飲んでいるときであろうが、隣家で爆弾テロが起きようが。
坂城はいつも通り、そのルールに従ってクライアントから目を離さず、鮮血に似た朱色の紅茶を啜った。口の中で桃の香りははクッキーと衝突し、混じり合ったあとにブラックホールのような食道の入り口に吸い込まれていった。それに対して天野は紅茶から立ち昇る湯気をじっと、陰鬱そうに眺めていだけで手をつけようとしない。
「それで?話を聞こうじゃないか?」
坂城の言葉に天野は慌てて紅茶から目を逸らし、再び坂城の顔を確認した後、重々しく口を開き始めた。
「笑わないでください。これから私の話すことは真実なのですから。だけど仲のいい友達にさえ話すことができないほど恥ずかしい秘密なのです」
「だから一回のコンタクトで済む俺に相談すれば秘密が広まないし、運がよければそのことすら忘れてもらえるということか」
天野は驚きによって目を大きく開いた。しかししばらくすると少し緊張がとけたように話を続けた。
「あの......気に障りましたか?」
「いや、よくあることなんでね」
坂城は無表情のままもう一口紅茶を啜った。その態度に天野はついおかしく、クスリと笑った。それを見た坂城は天野の緊張が完全に吹き飛んだことを確信した。
「それで秘密とは?」
数秒天野は目を泳がせた後、正直に告白しなければ意味がなことを悟った。
「実は私......見えるのです」
「見えると言うと?」
「この世にあるはずのないもの。言わば幽霊とかその類です」
坂城は喉が塞がる感覚とお茶と溜飲が口元にまでがせりあげる感覚を同時に味わい、咳き込みながらどうにかそれらを押さえつけた。
「見えるのですか!」
「はい。そうですが」
ここで坂城は三つの可能性を考えた。まず嘘の可能性だったが論理的に考えて否定せざるをえなかった。ビジネスに意味のない情報の提示はネガティブな要素しかない。そしてその程度の相談なら身内ですれば解決するし、金も支払わずに済む。二つ目は何かの広告の宣伝者である可能性。しかしたかがオカルトクラブか何かの活動のために出歩いて、すでに会社を創設した相手を勧誘するのも不自然だし、ここはビジネスアドバイザーではない。最後の可能性は天野の心が真っ白で言った内容が全て真実であること。非現実的な意味で最も外したい可能性であったが坂城にはできなかった。
いずれにせよ時が判断するのは確かだった。
「幽霊とは」
坂城は突然ティーカップを持って立ち上がった。
「全世界的に度重なる観測事例の一つであってそれにまつわるストーリーも多い。日本で言えば四谷怪談があり、西洋ではハロウィンやホーンテッドマンションが有名だ。そして共通することに幽霊の肉体は朽ちており、何かのためにさまよっているということだ」
「『何か』って未練とかですか?」
「具体的にいえば愛、無念、恨みなどだ。ホラー小説では基本恨みや無念のゆえに出てくるものが多い。だが幽霊が守護霊となるエピソードも創作されていることから完全悪という訳ではない」
そこまで坂城が説明すると外が騒がしくなった。坂城は赤いソファの真後ろの窓枠から外を眺めるかのようなポーズを取った。
「ポルタ―ガイストはやって来る」
そう小さく呟き、坂城の唇の端はゆっくりと上がっていった。