あかりのした
ひさしぶりに酒でも飲まね?
まだ仕事中だったY(仮名)のもとにメールが来た。
学生時代から付き合いのある友人K(仮名)からだ。
そういえば、就職してからはお互いなにかと忙しく、携帯端末を通してのやりとりばかりだった。
じゃあ、おれの仕事終わったら車で迎えに来てくれ。
度重なるスピード違反で免停をくらい、公共交通機関を使って職場に通っていたY。仕事が立て込んでいる今夜はぎりぎり終電に間に合うかどうかだったので、渡りに船とばかりにメールを返した。
幸いにも明日は休日なので、このままKの部屋に転がりこんでも一向に構わない。
そう思っていたYだったが、仕事が片付き、いざKのヤニ臭い車に乗って話してみると、二人とも給料日前。居酒屋で飲むには、持ち合わせが心許ない。結局、予算の都合から、途中のコンビニで酒やつまみを買って、Kの部屋で飲むことになった。
深夜の車中、ハンドルを握るKは、なんとはなしに話し出した。
「そういやさ。この前、こんな風に夜走ってたら、変な女、見かけちゃってよ」
それを聞いた助手席のYがアゴで前方を指し示す。
「もしかして、あんな感じの女か?」
人気のない左側の歩道。
街灯に向かって、ぽつんと立っている一人の女の後ろ姿があった。
前に向かって長く毛先を斜めに揃えたような肩までかかる黒い髪。もう夏の盛りだというのに、厚ぼったい冬物の白いコートを着て、ポケットに手を突っ込んでいる。
このときYは、頭のおかしい痴女かなにかだろうと思った。気味は悪いが、そういう奴もたまにいる。
そのまま車は通り過ぎ、女も風景も後方へと流れ去った。
「……あいつだよ」
Kの震える声にあきれながら「他人の空似だろ」と言いかけてYは凍りつく。
次の街灯の下にも、同じ女が立っているのだ。
そうそう、いるだろうか。
このクソ暑い夏の夜、わざわざ冬物のコートを着込んで、外套の明かりの中に立つような女が。しかも、道路に背中を向けたままだ。
すれ違う一瞬、席が近いYは、固まったままどうすることも出来ず、女の後ろ姿を凝視してしまった。
髪と襟の間から覗く、うなじの色が薄い。白でも青でもなくその中間、水色に近かった。
金縛りのような状態から解けたYが、バックミラーとルームミラーを見る。
まだ、あの場所に女が立っていた。
どんどん遠ざかっていくのを確認し、安心したYはKに聞いた。
「なんだよ、あれ……」
「そんなの知らねェよ!」
「前に見たときも二回出たのか?」
「いんや、あんときは一回見たきりだよ。でも、全然違う道だぞ? あれは海岸通りで」
次の明かりが見えてきた。白い人影が立っている。……また、あの女がいた。
「おい、どうする? これ、どうすりゃいいんだよ?」
「どうって、そりゃお前、……道、変えよう」
Yにそう言われたKは急ハンドルで左折する。タイヤが軽く悲鳴をあげて車は脇道へ入った。
なんとしても、あの女に近付くのだけは御免だった。
「普通、幽霊っつったら、後ろから追っかけてくるもんだとばっか思ってたわ……!」
あんな真似が出来るのは人間であるはずがない。それなら幽霊に違いないと二人の意見は一致した。
「まあ、映画の殺人鬼とかなら先回りもするだろうけどな」
それきり、あの女は現れない。
恐怖と緊張の反動からだろうか、二人は軽口をずっと叩き合っていた。
「やべ。コンビニ寄んの忘れてた」
そう言ったのはKだったが、言われるまでYも完全に忘れきっていた。
得体の知れないあの女から受けた精神的ショックはやはり大きかったらしい。
気付いたのはいいが、すでに車はKの二階建てアパート裏にある駐車スペースに止めたあとだ。
「おい。Kの部屋って……」
「ああ、二階の真ん中の……あれ?」
深夜だから就寝中なのだろうか、他の部屋はすべて真っ暗だ。
だが、二階に三つある窓の真ん中だけは電気が点けっぱなしらしく、緑のカーテン越しにぼんやりと明るかった。
「消し忘れたのか?」
「いんや、確か、消してきたはずだけど……おい、あれ!」
カーテンの向こうに人影が立っている。
押し寄せる嫌な予感を無理矢理に打ち消そうと、Yは陽気なふりをしてKに聞く。
「なんだ、K! カノジョ呼んでたのか! そういうの先に言えよ!」
「……半年前、大ゲンカして、それっきりだよ」
そのときに合鍵を顔に投げつけられた、と。
「じゃあ、あれは……。あの、ほら、あれだ。きっと泥棒だ」
「そうか! そうだな! 泥棒だよな!」
冷静に考えれば、泥棒の犯行現場にかち合うのも相当怖い。
だが、いまの二人にとってはあの女でさえなければ、もう誰でも構わなかった。
ふっ、と部屋の電気が消える。
カーテン越しの人影も暗さのなかに溶け込んだ。
「ど、泥棒、出てくるかな? 警察に電話すっか? やっぱ」
声が上擦るKになにか言おうとYが口を開きかけた、そのとき。
右隣の部屋に明かりが灯った。
厚い遮光カーテンの下の隙間から、線のように細い光が漏れている。
「なあ、K。隣はどんなヤツが住んでるんだ?」
「ホストだな。あんまチャラチャラした感じじゃねェけど」
窓の向こう、光の線を遮って、左から右へ室内を影が動いている。カーテンのおかげでシルエットまでは見えない。
「……ホストが、こんな時間に帰ってくるか?」
「今日休みとか? たまたま、さっき目が覚めたとかさ? もしかして、泥棒が隣も物色してるとか?」
先の二つはともかくとして、最後のひとつは難しい。部屋から部屋へと移動したにしては、かかった時間が早すぎる。
そこでYはふと気付いた。
そもそも、盗みに入った留守宅で電気を点けるか?
帰ってきた住人は、外からでも異変に気付くはずだ。
いまの自分たちのように。
窓の右端まで動いた影が、ぴたりと止まった。
カーテンがすこしだけめくられて、ちらりと見えたものがある。
白い袖と赤い手だった。
「いまの手! あれ、おい、血じゃねェのか!」
顔面蒼白のKがビビリまくるおかげで、Yは正気を取り繕うしかなかった。
「いや、違う。違う。違う! あれは革の手袋だ。赤い色してるヤツだ!」
またKの部屋に明かりが点いた。
人影が右から歩いてくる。
そのまま、カーテンを横切り、また電気が消えた。
今度は左の部屋が明るくなった。
この窓にはカーテンがかかっていない。
「K、あっちの部屋は……」
「……誰も、住んでねェ、よ?」
だから、カーテンが無いのだ。
だがそれなら、ブレーカーも落ちていて電気も点かないはずだ。
明るい窓の右から誰かが歩いてくる。
白いコートに赤い手袋。斜めに切り揃えた髪。……あの女だった。
あの女、まさか壁を通り抜けて、隣の部屋に移動しているのか。
窓の真ん中まで来た女が立ち止まった。
ゆっくりこちらを向こうとしている、そんな気がした。
「うわああああああっ!」
絶叫しながらKが車を急発進させる。おかげでYも女の顔を見ないで済んだ。
「落ち着け! 落ち着けって! そうだ、おれの部屋行こう! 泊まってけ! それなら大丈夫だろ!」
だが、無灯火のまま公道を爆走する車の中、このまま事故るんじゃないかとYは気が気ではなかった。
なんとか平静さを取り戻し、ライトを点けたKはやっとのことで車のスピードを落とした。
「なんなんだよ、オレがなにしたってんだよ……?」
鼻をすすりながら不平をこぼすKだが、正直Yも泣きたいくらいだった。
なぜ、あの女が先回りして待ち構えているのか。その理由がまるでわからない。
「なあ、K。お前、道に置いてあった花束にイタズラとかしてないよな?」
「するわけねェだろ! それ、誰か事故で死んだ場所だろ!」
車内に立ち込めていく険悪な雰囲気にYが困っていると、そこにコンビニの看板が見えてきた。
「疑って悪かったよ。あそこで酒買ってやるから許せ」
「……オレ、かなり飲まないと眠れねェかも」
「わかったよ、デカいやつ何本か買ってやるから。それでいいだろ」
駐車スペースにバックで停まった車から降りようとするKをYが呼び止めた。
「待て、K。……うしろ見ないで、そのまま車出せ」
Kのいぶかるような視線を感じるYだったが、サイドミラーから目を離せない。
「いんのか……?」
またKの声が震え出す。
「……いる。店の中だ」
一瞬の沈黙のあと。
「ウソつけ! ホントはいねェんだろ!」
止める暇もなく思いきり振り返ったKは、明るい店内をざっと見回した。
「自動ドアのところだ」
店内の自動ドアの前。
これから来る客に立ち塞がるかのように、白いコートの後ろ姿が立っていた。
季節はずれな赤い手袋をはいた両手を、退屈そうにぶらぶらさせている。
センサーは女にまったく反応せず、ドアが開くそぶりもない。
若い男の店員が真面目に床掃除をしているが、女の存在にはまるで気付いてないようだった。
黙ってKは車を出した。言葉もないYを隣に乗せて。
安全運転で走る車の中は、しばらく無言のままだった。
ハンドルを握るKも助手席に座るYも、歩道の街灯が近付いてくるたびに身を固くした。
そして、誰もいない明かりの横を何事もなく過ぎ去っていくたびに深い安堵の溜息をつく。
「なあ、Y……」
重い空気に耐え切れなくなったのか、Kがか細い声で呼びかけてきた。
「なんだ?」
声も重々しく仏頂面で答えるY。
「もし、もしも、さ……。お前の部屋にも、あの女、先回りしてたら、どうする?」
怖いのかなんなのか、Kの声は引き攣った半笑いのように聞こえた。
なるべくYが考えまいとしていた嫌な可能性だった。
しかも、いままでのことを考えれば、その可能性はおそろしく高い。
今朝まで当たり前に暮らしていた、散らかってはいるが狭いなりに居心地のいい自分の部屋。
そこを白いコートの女がうろつきまわっている。しかも、壁をすり抜けながら。
あの真っ赤な革手袋は、室内のなにに触っているのだろうか。
やっていける自信がない、そんな暗い因縁のある部屋で。
……暗い?
その言葉をきっかけに、Yは閃いた。
「おい、K! あの女、ずっと明かりの下にいたよな? 隣の部屋に行くときも、まず先に電気が点いてたよな?」
「ああ? うん、そうかも。……いや、そうだ。そうだったわ」
「もしかしたら、もしかしたらだぞ! あの女……、明るいとこにしか出ないんじゃないのか?」
Kもハッとなった。
「それだ……! ようし、それじゃあ!」
「暗いところに行こうぜ!」
言うまでもなく、それは間違いだった。
「なんだよ、ここ……! 超怖ェじゃねェか!」
真っ暗な広い駐車場のど真ん中で、Kはハンドルに突っ伏して不平を漏らす。
「……すまん」
案内したYは素直に謝った。
ここはプールを中心とした室内遊戯施設に隣接した駐車場。現在は改装中で、全面的に休業している。
もちろん夜は、鎖を張って駐車禁止にしているのだが、従業員用の裏道からなら車でも入れるのだ。
五十台ほど収容可能な駐車場の四方には立派な照明が立っているが、工事作業員のいない今、明かりはもちろん点いていない。
ときおり小さく波の音がする。
駐車場の背面に立つ壁の向こうは、護岸ブロックが置かれ、その先は海だった。
それでも、Kが最初に女を見たという海岸通りからは、かなり離れている。
怖いものから逃げようと夢中になるあまり、かえって怖い場所に飛び込んでしまった。
そんな気がしてならない。
「まさか、心霊スポット、とかじゃねェよな、ここ」
「違うと思う。たまに若い連中が車やバイクでターンしまくってるし」
「でも、そういうヤツらって好きだろ? 心霊スポット」
「確かに霊なんかより不良のほうがよく集まる印象だよな」
「悪いモノを呼び寄せんだよ。テレビで言ってたわ。デブの霊能力者が」
幸いにもコンビニ以降、あの女には出会っていない。
そのせいか、それともここが怖いからか、二人とも口数が多くなっていた。
それでも、用心のために車のライトは消し、室内灯も点けない。
エンジンかけっぱなしで、クーラーを回す。どれだけ暑かろうと窓は開けたくない。
ラジオのスイッチを入れた途端、山崎ハコのあの曲が流れ出した。即、切った。
「なあ、Y。オレら、いつまで、ここに居りゃあイイんだ……?」
「……最悪、夜明けまでかな」
時計が示す時刻は、深夜二時。
いくら夏の夜明けが早いとはいえ、あと三時間近くあるはず。
その間、この暗闇に留まり続けるのは精神的にもかなりキツい。
張り詰めた緊張状態のなか、時間は遅々として進まず、だんだん話題も尽きてきた。
「悪ィ。ちょっと、タバコ吸わして」
「ああ」
煙草を咥えるとKはオイルライターのフタを弾いて開けた。
暗い車内を照らす、小さな灯し火。
「マズい! ちょっと待て、K!」
急ぎ右を向いたYの目の前を遮るように、ふわりと後ろから伸びた白い冬物の袖。
赤い革の手袋が、Kの頭をヘッドレストごと抱きしめる。
その一瞬で、運転席からKの姿が消えた。
火の点いていない煙草と、火の消えたライターを椅子の上に残したまま。
「うわああああああっ!」
全身を走った悪寒に押し出されるように、Yは車から外へ飛び出した。
勢い余って躓いて、転んだ拍子に、左膝を激しくアスファルトにぶつける。
だが、その痛みのおかげか、パニックから我に返ることが出来た。
「痛ってえ……! K! おい、K! どこだっ!」
とうに暗さに慣れた目であたりを見回すが、見える範囲には誰もいない。
呼ぶ声に応えるものといえば、寄せては返す波の音ばかりだった。
「K! K! ……くそっ! どうすりゃいいんだ!」
もう一度、海のほうの壁を振り返る。
その瞬間、背後、つまり駐車場の前方から、暗闇を裂くような強烈な光が射した。
反射的にYは振り向いた。
鎖が張られた入口側近くに立つ夜間照明が、昼のように明るくあたりを照らしている。
その明かりの下、スポットライトのような光の中に、ふらふらと揺れる白いコートの後ろ姿があった。
足の数がおかしい。
白いコートの裾から見える女の黒いブーツの他に、もう一組の足が見える。
右に左にと女が揺れ動くたびに、力ないその足が引き摺られていく。
女の肩ごしに、もうひとつ顔が見えた。
白目を剥き、口から泡を吹いている。
Kだった。
気絶しているKを抱きすくめたまま、コートの女は光の輪の中を揺れ動く。
それは、踊るようにも、子供をあやすようにもみえた。
かくん、とKの首がうしろに仰け反る。糸が切れた人形じみた動きで。
「この、クソ女っ……!」
笑い出した両膝に握り拳を叩きつける。ケガをした左膝に激痛が走り、Yは涙ぐんだ。
泣いたのは恐怖のためかもしれない。
左足を引き摺って、白いコートの女と捕まったKのもとへじりじりと近寄っていく。
やっとの思いで同じ明かりの輪に入った。
白いコートの女の肩に手を伸ばす。
近くで見ると女の襟足はキレイに刈り上げられていた。
「手を離せ、この化物がっ!」
触れた。と、思った瞬間、女は消えた。
夜間照明の脚部の根元に、Kがへたり込んでいる。
「おい、K! 大丈夫か! しっかろしろ!」
消えた女よりもKの安否のほうが大事だ。
返事をしないKを起こそうとYが屈む。
そこへ光が近付いてくる。車のヘッドライトだ。
Yは眩しさに手をかざしながら、轟音を立てながら猛スピードで接近する車を見た。
運転席のチャラそうな男の首には、白いコートの腕が巻きついていた。
「……と、まあ、そんな話なんですが」
よく効いた冷房がうすら寒い喫茶店でY氏は、それまで事の顛末を語り終えた。
地元の妙な話に詳しい人間がいると聞いたY氏から、共通の知人経由で連絡を貰った私は、その話のあまりに壮絶な内容に驚きを隠せなかった。
「凄い話ですね」
やっとのことで出た言葉がこれだった。
Y氏は鋭い眼差しで私に質問する。
「ところで、なにか似たような話をご存知ないですか? 海岸通りに出るっていう女の幽霊の」
「海岸通りの幽霊ですか……。二十年以上前から噂だけは聞くんですが、どれだけ調べても見たという当の本人が出て来ないんですよ。だから服装まではっきりしたのは、私の知る限り、今回のYさんのケースがはじめてです。申し訳ない」
「そうですか……。もしかして、あの女を見た人は、みんな亡くなっているとか」
「いえ、おそらくそれはないでしょう。もしも生前、誰かに話していれば、話者の死という結末で話が強化されて、ほぼ確実に残りますから。本当に下衆な話ですみませんが」
幽霊に捕らえられたK氏と突っ込んできた車の運転手は即死だったという。
はねられたY氏は、幸運にも肋骨を三本ほど折っただけで済んだ。
地元警察は、居眠り運転による事故に、不幸な偶然が重なったものとして事件を処理した。
「しかし、そんな目に遭いながら、どうしてYさんはその幽霊のことを?」
「実はですね。入院中に免停も明けたので、これからあの女を捜し回ろうと思ってたんですよ」
目を剥く私に、Y氏はどこか悲しげに微笑んだ。
「Kの仇討ちってわけでもないんですけどね。塩の一掴みでもブッかけてやろうかと思いまして」
「その話、是非聞きたいですね!」
Y氏は私と約束すると、笑って帰っていった。
だが、その約束が果たされることはなかった。
ある夜のこと、車で事故を起こし、Y氏は亡くなったのだ。
海岸通りの街灯に猛スピードで突っ込んだという。
ブレーキ痕がなかったため、居眠り運転と判断されたらしい。
それからというもの、夜に車を運転すると、つい私は歩道の街灯を見てしまう。
誰かが立っているような気がするのだ。
白いコート女か。
女に捕まったK氏か。
女を追ったY氏か。
あるいは、その全員が、立ち尽くしているような気がしてならない。
そう、次の街灯の下に。