Ira
「本日もお綺麗なことで、、」
リシェには珍しく朝からお風呂につかっていた。後ろではディルが彼女の髪を綺麗に洗っていた。それが心地良くてリシェはうとうとしていた。
「貴女も一緒に入る?」
「お嬢様とご一緒するなど、畏れ多くてできませぬ」
「冗談よ」
リシェがそう言うと、ディルの手の動きが微かに変わった気がした。
「貴女って意外と素直ね」
「からかわないで下さい」
ディルは綺麗に洗ったリシェの髪をタオルで拭き、悪戯っぽくクシャクシャと掻き乱した。
「こら!」
振り返り、立ち上がったリシェはディルに抗議の声を上げた。頬を赤く染めて、怒っているからなのか、逆上せてしまったのかは分からないが、何だか可愛らしかった。
「私をからかった仕返しです…」
「まったく、何なのだ」
「お嬢様の肌はとても美しゅうございますね…」
「こ、こら見るな…」
慌ててバスタブの中に姿を隠し、ディルの方を見た。
「せっかく拭きましたのに、手間のかかるご主人様ですこと…」
ディルはクスッと笑って再びリシェの身体を綺麗に洗う。
部屋に戻ったリシェは椅子に腰掛けてくつろいでいた。
ディルがいつものように手紙を届ける、今回の相手は騎士の家系で王宮に仕えていると云う。
「諦めが悪いですね、何を考えているんでしょう、人間とは本当に理解し難い…」
ディルは呟いた。リシェはそれを聞いてディルを見た。
「ねぇ、もし、私に好きな人がいて、その人と…その…結ばれたいと願ったら…」
「貴女の願いならば私は叶えるでしょう。それが“約束”なのですから」
「そう」
リシェはホッとしたのか複雑な気分になる、気を紛らわせようとディルに紅茶を淹れさせた。
「でもどうして、デートの場所に闘技場を選ぶのかしら…」
「力を…見せ付けたいのでしょう」
質問に答えたディルは、どこか嬉しそうな雰囲気だった。
「まさか戦うつもり?」
「それも良いですね、もし私に負けたらどう弁解するか見物です。もっとも、生きていられたらの話ですが」
悪魔は笑みを浮かべていた。
郊外の闘技場に着くと、中からは歓声やが聞こえてきた。もう決闘は始まっているのだろう。案内の者がイルが連勝中だと告げる、しばしの休憩を挟んでまた決闘が開始されるという。招待したのがイル本人だけあって案内されたのは特等席だった。彼はコロセウムの中央で剣を掲げていた。
「さすが騎士ですね」
「負ければ死ぬ決闘ですか、どうして人間は無駄な血を流すのが好きなのでしょうね。」
「馬鹿げていると?」
「はい、ですが、人は元々仲違いするもの、相手を殺し、そして強い者が残る、殺し合うほどに悪魔は微笑むのです。」
「貴女も?」
「そうかもしれません…」
決闘が始る、何度か剣がぶつかり合い、剣は相手の脇腹を切り裂いた。観客が狂ったように声援を送る、そんな中、イルが「腕に自信のある奴は出て来い」と、決闘の相手を探していた。
「軽くお相手して差しあげなさい」
「焼き加減はどういたしましょう」
「レアになさい」
「御意」
ディルが出ると会場は笑い声が溢れた。馬鹿にした笑いだ、だがディルも笑顔だった。余興にはちょうど良い、イルはそう思い、軽くあしらってやろうと考えた。
「さあ、好きな武器を取れ」
イルがグレートソードを持って構えるのに対して、ディルが剣を右手に持ち短剣を左手に持って構えた。
「なかなか面白いな」
イルは二刀を使う相手と戦った事なら何度かある、その誰もが剣を振り回すだけであり、大剣の威力であれば構えを崩して押し切れる。しかも相手は女だ、負けるはずがない。
「私はいつでも構いませんよ」
「馬鹿にするな!」
イルが大剣を構えて突進してくる、その大剣でディルを突き刺す。だが剣身は短剣によって軌道を逸らされていた。
「何…」
悪魔は短剣で大剣を弾くと、バランスを崩したイルに右手の剣を彼の脇腹に突き刺した。
「うっ…」
「貴方は剣と盾を選ぶべきでしたね。」
「まだだ…まだやられてない…」
「当たり前でしょう、急所を外して差しあげたのですから、リシェ様の婚約者を殺す者がどこにいます。」
「馬鹿にするなよ…」
退いたイルは再び剣を構え、今度は振りかぶるようにして襲ってきた。振り下ろしたイルの剣を踏み台にして、ディルは彼の後ろに飛び、身を翻して振り向きざまにイルは薙ぎ払う様に剣を振り切った。ディルは短剣で剣を受け止める。
イルが力で押し切ろうと力を込めている、ディルの左手はわずかに震えていた。
「貴方はすぐに離れるべき…」
ディルは右手の剣でイルに斬りつけた。彼はすかさず後方に避けた。
「貴方の戦い方は見せ掛けばかりで、本当に国の英雄とまで言われているのが不思議です…」
悪魔が笑う。イルが怒りに任せて剣を叩きつけてくる、ディルは交わしながら後退っていった。壁際に追い詰められたディルは何とか攻撃を交わしていた。
「女相手に本気を出せるか…」
イルが剣を引いてディルに突き刺そうとしたが、剣はディルの持つ短剣で軌道を逸らされて壁に刺さり、右手の剣はイルの腹を突き刺していた。次の瞬間、イルが仰向けに倒れていた。
「クッ…新たな英雄の誕生を…祝福せよ!」
イルは叫んだ、ディルの思い描いた結果とは異なっていた。イルに近づくと首筋に手を当てて脈を確かめる、そして止血するように傷口を抑えた。だが、彼は血を吐いて息絶えた。
リシェは戻ってきたディルを優しく抱きしめた。
イルの付き人がリシェの元に来ると、ディルの襟元を掴み殴りつけた。ディルは客席に倒れこみ、蹲った。突然の事だったが、リシェは毅然とした態度で付き人に向き合う。
「おやめ下さい、彼が倒れたのは彼が弱かっただけのことです」
「倒せなかったのは悪魔…、すみません」
イルの付き人はディルを殴った事を詫びると手を差し伸べた。
「私は貴方と戦ったら勝つ自信がない…」
ディルは付き人の手をつかんだ。
「遊びが過ぎるのも考えものですよ、貴女は良い主を持って幸せだ」
ディルを立ち上がらせたイルの付き人は、お辞儀をすると立ち去った。イルの亡骸を抱えて、闘技場を出る。
「英雄の死に涙せよ!」
イルの言葉で観客は英雄の死を讃えた。その後、彼の為に国葬が執り行われ、手厚く葬られたという。
屋敷に戻ると、リシェは疲れたのかベッドに横になると眠りに就いた。夢を見ていた…。その女は魔女と呼ばれ、虐げられていた…。
ディルはただリシェの傍で寝顔を見て優しく微笑む、寝ているリシェのドレスを、彼女の目が覚めぬように着替えさせた。リシェの身体を起こしても彼女は起きず、夢の中にいた。