Avaritia
ディルがカーテンを開けると光が射し込み、リシェは眩しくて目が覚めた。
「おはようございます、ご主人様」
「はぁ…何だか悪い夢を見ていたような…」
リシェは身体を起こすが、まだ眠くて仕方ない、出来ればもう少しだけ寝ていたかった。
ディルはハーブティを入れていた。
「この香りは…?」
「ローズヒップとハイビスカスのブレンドです、私はこの赤がとても好きです、そしてこの香りも、この酸味の中に微かに感じる甘さも…」
「私は熱いのは苦手です」
「ご主人様、受け皿が何のためにあるかご存知ですか」
ディルは微笑み、カップにハーブティーを淹れると受け皿に乗せてリシェの前に差し出す。
「こうするのですよ」
リシェが差し出された受け皿を手にすると、ディルはカップを手にして中身を受け皿に注いだ。
「こんな無作法な冷まし方をする者などいませんよ」
リシェの言葉に悪魔は「人間の作法ですよ」と笑って返した。リシェは受け皿に入れられたハーブティーを口にすると、ディルの方を見る、悪戯な笑みは楽しんでいるようだった。
「本日の予定はアベル・リューグ卿と十二時にランチ、十四時から十六時までショッピングを楽しんだ後、十八時まで…」
「もういいです、分かりました」
「はい」
悪魔は微笑んだ、何を考えているのかさっぱり分からなかった。
「そこは笑うところなのですか?」
「ええ、夜が待ち遠しくなりました。」
服も着替え、食事も終わり、少し休んだ後に出掛ける支度をする。その間も悪魔は嬉しそうにしていたので、リシェはそれが不気味で仕方なかった。ディルは相変わらず淡々と仕事をこなしていて無口であり、嬉しそうだというのは何となくそんな気がする程度だ。
馬車を降りて大通りを少し歩く、待ち合わせていた大通りのカフェの前に着くと、目印代わりの花束を持った男が出迎えた。
「帰りましょう」
ディルはその男を見た瞬間きっぱりと言い放った。
「どうしたの?」
彼の着ている服はしっかりとアイロンもかけられ、シャツも白く、髪形も整っている。立ち方もだらしないというわけではない…
「美しい薔薇もあれでは泣きます。」
彼に近づくと、リシェに気づいた彼は下向きに持っていた花束を持ち直して左手を添えた。
その時ディルが素早く懐から何かを出して、二人の間を遮るように左手をのばした。二人を遮った左手にはペーパーナイフが人差し指と中指に挟まれる格好に、真っ直ぐに伸ばした腕と指の延長のようにそこにあった。
「何の真似だね」
アベルが驚いて声を上げるのを余所に、ディルはペーパーナイフを彼の前に見せ付けるように翳す。
「申し訳ございません、我が主の服にその花束から滴る水滴が飛びましたので…」
ディルの言うように、ペーパーナイフには水滴が幾つか付着していた。ハンカチを取り出してそれを拭き取り、何事もなかったかのようにしまう。リシェは彼女が何であんなことを言ったのか理解できた。
「分かったからお前は下がってろ」
アベルの言葉に悪魔は無言ままリシェの後ろに下がった。それでも気に入らなかったのか、アベルはリシェに見えないようにシッシッと追い払うような素振りを見せた。
「ご主人様、私は所用がございますので一旦失礼いたします。」
ディルはリシェの耳元に唇を寄せると、アベルには聞こえない声で何かを告げると、街の喧騒の中へと消えていった。それを見て、アベルはニヤニヤとしながらリシェと共に街に消えていった。
『問題が起きましたらすぐにお呼びください』
ディルは彼女にそう告げたが、結局夜になるまで何もなかったのか、リシェが呼ぶことはなかった。屋根の上からリシェの姿を見ているディルは、つまらなそうに二人の姿を眺めている、つまらなそうと言ったが実際につまらないのだ。
二人が店の中に入るのが見えて、悪魔は大通りに舞い降りた。中の様子を遠目に見ながら、さてどうやって始末しようかなどと考えていた。見ればリシェは相変わらず退屈そうで、彼の話などもう聞きたくないという感じで顔を背けていた。リシェが人形を手にしてそれを眺めている、少し寂しそうに見えた。
リシェは人形を手にしてふと顔を上げると、大通りの向こう、人ごみの中にディルを見つけて、少し気が楽になった。もう彼のコレクションの話などは聞き飽きてしまう、アクセサリーの一つでも買ってもらえるのかと思ったが、そんな素振りは全くなかった。
大通りの向こうでディルが腕を組み、何をするわけでもなく待っていた。こうして見るとディルは背も高くて美人だ、だが彼女に声を掛ける者がいないのは、どこか近寄り難いところがあるのだろう。持っていた人形を元の場所に戻し視線を上げると、ディルは見知らぬ人と話していた。そしてその人物は人ごみに消えていった。
日も落ちてディナーの後、各地を旅するサーカス団が来ているというので、其方へと足を運んだ。予定など殆ど無視していると思われるが、特に急ぐわけでもないので寄り道くらいは何ら問題はない。
リシェは初めて見るサーカスに胸を躍らせていた。動物達の曲芸や道化師の曲芸など、舞台は華やかに彩られ、他の観客達も喜び楽しんでいた。
「ご主人様」
後ろから耳元で囁かれ、驚いて振り向くとディルがいた。まったく、神出鬼没な悪魔だなと思いながら話を聞くと、『面白いものが手に入りましたので、先に帰っております。後ほどお迎えに上がります』と言ってその場を去った。
ご主人様を置いて先に帰るメイドがどこの世界にいるのかとどやしたくなるが、それでも彼女は私の為に働いてくれるし、何か考えがあっての事だろうと自分を納得させた。それでも何だか心細く感じてしまうのは何故だろう。
悪魔は屋敷に入る、そこはルーンベルク家の屋敷ではない、アベルの屋敷だった。屋敷の庭の四方に護符を貼り、ナイフを右手に持つと、左手でその刃を握るようにして傷をつけ、滴り落ちる血を護符に染み込ませた。
「まったく、自分の身体を傷つけるなんて、やりたくないのよね…」
思わず声に出しているが、自分の身体に傷をつけるのは痛いからやりたくないと言うのが正直なところだ、もしリシェが聞いていたら、それでも悪魔かと言われるだろう。そう思っているが、もし言ったら、それはそれで面白いとさえ思い、思わずニヤついてしまう。
準備が終わったら、後は屋敷に戻って次の準備にをするだけだ。
アベルはリシェをエスコートして屋敷へと帰ってきた。屋敷に入るとすぐに扉が叩かれる、開けてみるとそこに立っていたのはリシェのメイド、ディルだった。
「夜分に申し訳ございません、お二人の仲をより密接なものに出来ればと思い、名のある錬金術師様にこれを作っていただきましたのでお受け取り下さい。」
そう言って取り出したのは青い小さな瓶だった。中には液体が少量入っている、見るからに怪しかった。
「こんなものいらん」
アベルの返事に、ディルは落ち着いて続けた。
「これを飲めばどんなに嫌いな相手でも自分の意のまま、冷め切ってしまった恋人の仲から夫婦まで、たちどころにお互いを惹きつけることができると云いますのに、残念で仕方ありません。」
ディルはそれを庭に投げ捨てると、リシェの前に跪いた。
「ああ、かわいそうなご主人様、貴女にはもっと相応しい方がきっといるはずです…」
「待て、その話に偽りはないな?」
「はい、眠る前に一口飲めば、目が覚めた時にはそこは天国に変わっているでしょう。」
「わかった…信じよう」
「はい、ではまた明日、お目にかかりましょう」
リシェは、振り向きざまにディルがニヤリと笑ったように見えた。帰り際にリシェは尋ねる、今の話は本当なのかと、もし本当なら、私はアベルと結婚しなくてはならないのではないかと内心焦っていた。
「悪魔は嘘を言いません、悪魔は約束を守ります。」
ディルはそれだけをリシェに伝えた。
リシェは怒って屋敷に帰るなり部屋に篭もってしまう、ベッドに横になると、涙が溢れ、そして零れた。その夜、ディルはリシェの部屋を訪れる事無く、夜は明けていた。
気づけばもう朝だった。目覚めたリシェの目に映ったのは、新聞を片手に紅茶を飲んでいる悪魔の姿だった。
「おはようございます、気分はいかがですか?」
泣き腫らした目は霞み、もう何が何だか分からなかった。
「随分と涙を流したようで、折角の美人が台無しですよ」
悪魔の微笑みは、優しく温かかった。
そして、ディルの読んでいる新聞を覗き見ると、そこには概ねこのようなことが書いてあった。
『アベル・リューグ邸 倒壊、瓦礫の下から身元不明の死体が見つかる…、屋敷の従者は不在であった為、全員無事…、死亡したのはアベル氏とみられ…』
「これは…?」
「言ったでしょう、悪魔は嘘を言いません、悪魔は約束を守ります」
「でも、帰り際に“明日お会いしましょう”って…」
「ええ、ちゃんとお会いしましたよ、日付が変わった直後に」
その言葉を聞いて、リシェは可笑しくてつい笑ってしまった。
ディルはそっと涙の痕を拭うように指でなぞる、その左手には何かで切ったような傷痕が残っていた。
「その傷は…?」
「これですか、少し大掛かりな仕掛けをしましたので、ね」
この続きの少し残酷描写部分は別の機会に載せます。