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「お前の署名など羽根一枚の値打ちもない」と婚約を破棄された聖務書記官。――では十二年分、三千百二十四件の誓約書、ぜんぶ解除させていただきますね? ~天使の羽根で封じた誓約書・前世は法務部の社畜でした~

作者: uta
掲載日:2026/10/09

「リゼット・アルノー。お前との婚約を破棄する」


大広間の中央。王太子ユリウス・アルヴェンリードの声が、楽団の演奏を押し潰した。


「お前の署名など、羽根一枚の値打ちもない」


シャンデリアの光が、磨かれた大理石に落ちる。

三百人ぶんの視線が、わたくし一人に集まった。


わたくしは手にしていたグラスを、近くの卓にそっと置いた。

音を立てないように。


置き方ひとつで評価が変わる場所で、十二年生きてきた癖です。


殿下の隣には、蜂蜜色の巻き毛の少女。

白と金の聖女装束。

十七日前に聖女認定を受けたばかりの男爵令嬢、ミレーユ・ドレイク様。


泣きそうな顔をしていらっしゃる。


口元だけが、ゆるんでいる。


(器用な方ですね。表情筋が二系統で動いています)


「理由を、お伺いしてもよろしいですか」


わたくしは尋ねた。声は低く、語尾は丁寧に。

十二年で染みついた作法です。


ユリウス殿下は鼻で笑った。


「言わねばわからんか。お前は書類仕事しかしない。ミレーユのように癒やしの奇跡も起こせぬ。可愛げもない」


「はい」


「十二年だ。十二年、お前は一度も泣かなかった。笑いもしなかった。あれは女ではない、机だと皆が言う」


くすくす、と笑いが広がった。


「書記官なんて、誰にでもできるものね」


「ええ。字が書ければいいんでしょう?」


「公爵令嬢ともあろう方が、インクまみれで」


扇の陰から降ってくる声を、わたくしは一つずつ数えた。

癖です。議事録を取るときの。


「はっはっは! 書記官なんて誰にでもできるだろ、なあ?」


一際大きな声。

熊のような巨躯に赤毛の無精髭。騎士団第三隊長、ガルド・レンブラント。

悪気はない。悪気がないのが、一番たちが悪い。


(前世の記憶が、ふと浮かびます)


――中堅商社、法務部。八年。

深夜二時、誰もいないフロア。印刷したての契約書の束。


営業部の若い男が、帰り際に言った言葉。


『法務って、ハンコ押すだけっすもんね。楽でいいなあ』


そのひと月後、彼が独断で結んだ業務委託契約の損害賠償条項で、会社は四千万円を飛ばした。


わたくしはその後始末の資料を作りながら、机に突っ伏して死にました。三十二歳。


目が覚めたら、八歳の公爵令嬢でした。


(はいはい。八年の社畜経験で学んだことが一つあります)


(――『誰にでもできる仕事』と言う人ほど、その仕事を一度もやったことがないんですよね)


「あの、わたし、何も知らなくて……ただ、殿下が、そうしろって……」


ミレーユ様が、小さく言った。

主語のない文章。責任の所在を文法レベルで回避する話し方。


(よくできた逃げ道です。条文なら、まず削除を要求する類の)


「リゼット!」


殿下が苛立たしげに吠えた。


「何か言ったらどうだ。泣け。喚け。縋れ。そうすれば少しは――」


「かしこまりました」


わたくしは膝を折った。

非の打ちどころのない礼を、十二年ぶんの精度で。


「承りました、殿下。婚約破棄のご意思、確かに。――日付は本日、王暦七一二年、霜月の三日。場所は王城大広間。証人は、ここにおられる皆様ということで、よろしゅうございますか」


「……は?」


「記録の問題でございます。お気になさらず」


立ち上がる。背筋は定規のように。母に教わった通りに。


そのとき。


大広間の奥、公爵家の席から、一人の女性が立ち上がった。


亜麻色の髪を一筋の乱れもなく結い上げた、アルノー公爵夫人。

わたくしの母、オリヴィア。


母は何も言わず、人垣を割って歩いてきて、わたくしの隣に並んだ。


そして――殿下ではなく、広間全体に向けて、静かに言った。


「うちの娘は十二年、一枚も書き損じておりません」


空気が、止まった。


「――殿下は、何枚お書きになりました?」


返事は、なかった。


母はそれ以上一言も発さず、わたくしと並んで一礼し、踵を返した。


公爵家が王家に背を向けた瞬間として、後の歴史書に記録される一礼でした。


「行きましょう、お母様」


「ええ」


廊下に出てから、母は一度だけ、こちらを見た。

何も言わなかった。

ただ、わたくしの袖口の、落ちないインクの染みを、三秒ほど見ていた。


ただ、このとき大広間にいた誰一人として。

わたくし自身すら、まだ気づいていなかったのです。


殿下が口にした『羽根一枚の値打ちもない』という言葉が。


この国で、史上最も高くつく暴言になるということに。


◇


翌朝。


大聖堂の書記室は、いつも通り静かだった。


わたくしは六時に出勤し、黒い指抜き手袋を嵌め、インク壺の蓋を開ける。

十二年、変わらない手順です。


机の上には、昨夜のうちに届いていた書類の山。


――騎士団第三隊、支払命令書の更新。

――東部冒険者ギルド、魔物討伐報酬の分配条項。

――北境第二関所、通行誓約の年次更新。


この国の契約は、紙とインクでは成立しない。


『天使の羽根』。

大聖堂の守護天使が、年に数枚だけ落とす純白の羽根。


それをペン先に用い、署名した者の魔力を羽根に吸わせて『封じる』。

そうして初めて、文書は効力を持つ。


封誓約書(ふうせいやくしょ)、と申します。


封じた羽根は、封じた者本人にしか解けない。

ステータス板にも鑑定にも映らない、この国で最も地味で、最も強い仕様です。


この国のすべての秩序は、わたくしの手元にある羽根ペン一本で回っている――というのは、別に自慢ではなく、単なる業務分掌の話です。


わたくしは羽根を一本取り、インクに浸した。


一文字目を書く前に、必ず三秒待つ。


(息を整える。手首の角度を確認する。文面を頭の中で最後まで音読する)


前世の法務部で、最初の上司に叩き込まれたことが一つあります。


『契約書は、一文字の誤りも許されない。書き直せばいいと思うな。書き直した事実自体が、相手に隙を与える』


その人はパワハラ寸前の厳しさでしたが、言っていることは正しかった。


だからわたくしは、十二年。


三千百二十四件。


一枚も、書き損じていない。


「リゼット様」


扉の隙間から、煤色の頭がひょいと覗いた。


箒を抱えた、十歳の下働き。ニナ。孤児院出身。

大きすぎるお下がりのエプロンを、紐で何重にも巻いている。


「おはようございます。今日は早いですね」


「あのね、あのね」ニナは早口で言った。「下で、みんなが言ってた。リゼット様が、えっと、おうたいしさまに、捨てられたって」


「破棄、ですね。婚約破棄」


「ハキ」


「破る、棄てる、と書きます。覚えなくていい字です」


わたくしは引き出しから、布に包んだ蜂蜜パンを取り出した。

半分に割って、片方を差し出す。


ニナは箒を壁に立てかけて、両手で受け取った。


報酬も記録もない行為です。

十二年で、たぶんこれだけ。


「リゼット様、お城やめちゃうの」


「ええ。辞めます」


あっさり答えると、ニナはパンをかじる手を止めた。


「……やだ」


「どうして」


「だって」


ニナは、少し考えた。十歳の子が、言葉を探す顔で。


「リゼット様がいないと、お城の紙は、全部ただの紙になっちゃう」


わたくしは、顔を上げた。


インクを含んだ羽根ペンが、紙の上で一瞬止まる。


「……そうですね」


「そうでしょ?」


「ええ。正確です。あなたは、この城で一番正確なことを言いました」


ニナは意味がわからない顔をして、でも褒められたとわかったので、パンを大きくかじった。


わたくしは席を立ち、書棚の一番上から、埃をかぶった革表紙の冊子を抜き出した。


『聖務書記法』。

二百年前に制定され、以降一度も改正されていない。

おそらく、わたくし以外誰も最後まで読んだことがない法典です。


第七条を、指でなぞる。


――封誓約書は、封じた書記官の解除署名をもってのみ無効となる。

――書記官が聖務を離れる際、未解除の封印はすべて本人の裁量で処理できる。


誰も気に留めなかった条文。


なぜなら、辞める書記官が、今まで一人もいなかったからです。


(この国の人間は、契約を『自然現象』だと思っている)


(雨が降るように、給料が出る。日が昇るように、国境がある)


(誰かが毎晩、羽根を削って、一文字も間違えずに書いているなんて、考えたこともない)


わたくしは白紙を一枚引き寄せ、辞表を書いた。


一文字も、書き損じずに。


受理の判を押した聖堂長は、ろくに読まなかった。

「惜しいが、まあ、代わりはいるだろう」とだけ言って。


(いないんですけどね)


「ニナ」


「はい」


「蜂蜜パンは、まだ食べたいですか」


「食べたい!」


「では、文字を続けましょう。読めるようになると、人に騙されにくくなります」


ニナは口の端に蜂蜜をつけたまま、大きく頷いた。


わたくしは、机の上の封印台帳――三十二冊に手を置いた。


三千百二十四件。

騎士団給与。討伐報酬。ギルド登録。領地境界。聖女認定。王太子の婚約。


静かに、息を吐く。


「――もう、我慢いたしません」


声は、誰にも届かないくらい小さかった。


「順に、解除させていただきますね」


解除署名に要する時間は、一件あたり十数秒。


わたくしは、二日かけて、全部にペンを入れた。


書き損じは、ありませんでした。


◇


一日目。


騎士団第三隊、隊長ガルド・レンブラント。


彼は月初の支払命令書を受け取り、いつも通り部下三百人分の給与を振り分けようとして――


「おい。これ、読めねえぞ」


紙を裏返した。透かした。匂いを嗅いだ。


文字はある。だが『効いて』いない。


封印がない。


羽根の、封印が。


「……おい。会計、こっち来い。これ、誰が封じてんだ」


「は、はい。聖務書記官の、えっと……リゼット様です」


「あの書類のお嬢ちゃんか。呼んでこい」


「……昨日、辞められました」


「……辞めた? 昨日?」


二日目。


東部冒険者ギルド。

魔物討伐報酬の分配誓約が解けた。


報酬が下りない。

下りないので、依頼が受けられない。

受けられないので、街道の魔物が駆除されない。


ギルドマスターが本部へ早馬を飛ばした。

本部も、同じ状態だった。


三日目。


北境第二関所。

隣国との境界誓約が、三箇所で解除された。


法的に、そこは――どこの国でもなくなった。


王城は、麻痺した。


◇


宰相補佐アルベール・ヴァイスは、文書庫の床に座り込んでいた。


黒髪は撫でつけられ、銀縁の片眼鏡は一分の曇りもない。

だが彼は、三日間ここから出ていない。


床には、封印台帳が三十二冊。


震える指で、頁をめくる。


「……第千二百四十一号。西部街道、通行税分配条項」


指が止まる。


「第三項の但し書き。隣国側の違約時に、税率が自動で反転する設計。……三年後の情勢を読んでいなければ、書けない」


次の頁。次の頁。


「第二千七号。これは第千二百四十一号の反転条項を前提に、免税枠を逆算してある。……繋がっている」


次。


「第二千八百九十九号も。第三百十二号の文言を、十一年越しに引いている」


彼は顔を上げた。

片眼鏡の奥で、感情が一切動かないことで有名な男の目が、はっきりと見開かれていた。


「……全部、繋がっていたのか」


声が掠れる。


「十二年分。三千百二十四件。一度も、矛盾なく」


この国で、公文書を『作品』として読む人間は、二人しかいなかった。


一人は、三日前に城から消えた。


アルベールは立ち上がり、埃を払いもせず宰相の執務室へ向かった。


「辞意を表明します」


「正気か、ヴァイス」


「正気です。この国は、たった今、自分が何を失ったのか理解していない。理解していない組織に仕える意味がない」


「待て。待て、頼む」


◇


同じ頃、騎士団宿舎。


ガルドは王城の書記室へ走った。


扉を蹴り開ける勢いで入ったが、そこには誰もいなかった。


机の上。


十二年間、一度も書き損じのなかった羽根ペンが一本。

きちんと布で拭かれ、まっすぐに置かれている。


インク壺には蓋がしてあった。

椅子は、机の下にきちんと収めてあった。


ガルドは、その羽根ペンを見つめた。


夜会で、自分が何と言ったかを思い出した。


『書記官なんて誰にでもできるだろ、なあ?』


大笑いした。悪気はなかった。


「……誰が、これを」


巨躯が、ゆっくりと折れた。


「誰が、これを、毎月、三百人分……十二年……」


返事をする者は、もういない。


「お嬢ちゃん」


赤毛の隊長は、羽根ペンに向かって呟いた。


「おれは、あんたに、一度も礼を言ってねえ」


◇


同じ三日目の夕刻。


アルノー公爵邸に、王家の使者が到着した。


『至急、登城されたし』


わたくしは紅茶を飲み終えてから、カップを置いた。


(稟議を通した覚えのない案件が走っている。これが一番怖いんです)


(――ですが、今回は逆ですね)


(走っていた案件が、全部、止まっただけ)


「かしこまりました」


わたくしは手袋を嵌め直した。


「――順に、ご説明いたしますね」


◇


「元に戻せ!」


大広間に、ユリウス殿下の怒声が反響した。


三日前と同じ場所。同じシャンデリア。同じ三百人の貴族。


違うのは、全員の顔色でした。


「リゼット! 貴様、何をした! 国を人質に取るつもりか!」


わたくしは一礼した。


「殿下。まず、ご認識の訂正からよろしいでしょうか」


「なんだと?」


「わたくし、何も『した』覚えがございません」


「ふざけるな! 給与が払えん! 報酬が下りん! 国境が消えた! 全部貴様が――」


「はい。ですので」


わたくしは、右手の指を三本立てた。


「三点、ご説明いたしますね」


殿下の口が、半開きのまま止まった。


「一点目」


人差し指。


「わたくしは何も壊しておりません。『返した』だけです」


「……返した、だと」


「封誓約書とは、封じた書記官の魔力が、羽根を通じて継続的に支えている状態を指します。わたくしが支えていた分を、お返しした。それだけでございます」


わたくしは懐から、一枚の書面を取り出した。


「聖務書記法・第七条。『封誓約書は、封じた書記官の解除署名をもってのみ無効となる。書記官が聖務を離れる際、未解除の封印はすべて本人の裁量で処理できる』」


「そんな法は聞いたことが――」


「二百年前の制定法でございます。一度も改正されておりません。殿下が『知らなかった』ことと、『存在しなかった』ことは、法務上まったく別の事実です」


広間の端で、宰相が額を押さえた。


「契約とは、誰かが維持してこそ存在するものです。維持する人間を追い出せば、契約は消えます」


わたくしは、静かに言った。


「これは報復ではなく、仕様でございます」


「……し、仕様……?」


「二点目」


中指。


わたくしは視線を、殿下の隣へ移した。


白と金の装束の少女が、びくりと肩を震わせる。


「ミレーユ様の聖女認定書。あれにも、わたくしの羽根封印がございます」


「え……」


「十七日前。わたくしが徹夜で作成したものです。認定審査の添付書類が七点不足しておりまして、こちらで補完いたしました。無論、すでに解除済みでございます」


「か、解除……? そんな、わたし、何も……」


「つきまして」


わたくしは広間全体に向けて、告げた。


「現在、この国に聖女は存在いたしません」


「――いやっ」


ミレーユ様が悲鳴を上げた。


両手を胸の前で組み、いつものように祈る。

彼女が癒やしの奇跡を起こすときの仕草。


光は、灯らなかった。


もう一度。もう一度。


何も起きない。


「どうして……どうして光が出ないの……わたし、何もしてないのに……!」


「ええ。何もしていらっしゃいません」


わたくしは頷いた。


「聖女の奇跡とは、認定書の封印を経由して、教会の魔力貯蔵庫から供給される仕組みです。ミレーユ様ご自身には、はじめから何の力もございません」


「だって、みんながそうしろって……わたし、ただ……」


「ご記憶はありませんか。『認定を受けた後から、急に使えるようになった』――皆様、そう噂しておられましたでしょう」


広間が、ざわめいた。


「言ってた」「確かに」「認定の翌日からだ」


ミレーユ様は、床に座り込んだ。

泣きそうな顔。今度は、口元はゆるんでいない。


「最後に、三点目」


薬指。


わたくしは、殿下を正面から見た。


「婚約誓約書を封じたのも、わたくしです」


「……それが、なんだ」


「殿下が三日前、大広間の中央で、証人三百名の面前で『破棄する』と宣告なさいました。日付、霜月の三日。記録済みでございます」


「だから――」


「破棄の意思表示がなされた時点で、当該封誓約書の解除権は、封じた書記官であるわたくしに移行いたします。これも第七条です」


わたくしは、少しだけ声を落とした。


「ですが、ここに一つ、厄介な点がございまして」


「……なんだ」


「封誓約書の解除は、『破棄』ではございません。封印が解けた瞬間、その文書は『初めから成立していなかった』扱いになります。遡及的無効、と申します」


殿下は、まだわかっていない顔をしていた。


宰相は、もうわかっている顔をしていた。


「殿下」


わたくしは尋ねた。


「アルヴェンリード王家の王太子位は、どの文書によって担保されておりますか」


「……は?」


「第七百四号。『王太子正統性担保誓約』。殿下が十歳のとき、アルノー公爵家との婚姻誓約を条件として発効しております。第二王子派との継承争いを鎮めるため、公爵家の後ろ盾を法的に固定した文書です」


「……」


「わたくしが八歳のときに封じました。十二年前でございます」


わたくしは、三本の指を、静かに下ろした。


「――ご存じでしたか?」


「な」


殿下の喉が鳴った。


「な、なんだと……!?」


大広間が、割れた。


「王太子位が」「成立していない?」「では今まで十二年――」

「待て、継承序列が」「第二王子派に連絡を」「公爵家は、公爵家はどうなさる!」


貴族たちが、一斉に殿下から距離を取った。


潮が引くように。


それは比喩ではなく、物理的に、床の上で、人垣がきれいに二つに割れた。


「リゼット!」


殿下が叫んだ。


「待て、待ってくれ、おれは――そんなつもりでは、おれはただ、お前が、何も言わないから――」


「ええ」


わたくしは答えた。


「何も言いませんでした。十二年」


「だったら――!」


「言わない人間は、何も思っていない人間ではありません」


静かに。怒鳴らずに。


「記録していただけです」


わたくしは、膝を折った。

非の打ちどころのない礼を、十二年ぶんの精度で。


「では、わたくしはこれで」


顔を上げ、最後に一言だけ添えた。


「――お幸せに」


振り返らずに歩き出す。

人垣が割れる。誰も止めない。


扉の手前で、一人だけ、こちらをまっすぐ見ている男がいた。


黒髪に銀縁の片眼鏡。宰相補佐、アルベール・ヴァイス。


彼は震えていた。他の誰とも違う理由で。


すれ違いざま、彼が小さく呟いたのが聞こえた。


「……第千二百四十一号、第三項」


わたくしは足を止めなかった。


が、心の中で、ほんの少しだけ。


(――あれ、読んだ人、いたんですね)


◇


大聖堂の書記室に、最後の荷物を取りに戻った。


夕暮れ。誰もいない。


わたくしは机の上の羽根ペンを布に包み、インク壺を片付け、椅子を収めた。


十二年。


片付けると、驚くほど何もない部屋でした。


「おまえ、辞めるのか」


声がした。


振り返る。


天井の梁の上に、少年が座っていた。


白金の短髪に寝癖。曇天色の瞳。

裾の長い白衣を引きずって、素足を垂らしている。

見た目は十二歳ほど。


背中に、翼があった。


白い。だが――片方は三分の一ほどが禿げている。

もう片方も、羽根の間隔がまばらだった。


「どちら様でしょう」


「……セラフィ」


少年はぶっきらぼうに言って、顔を背けた。


「この大聖堂の、守護天使」


わたくしは、手を止めた。


「天使の羽根を落としていらっしゃる方、ですか」


「そうだよ」


「二百年、姿をお見せにならなかったと記録にありますが」


「見せたくなかった」


セラフィ様は、翼を背中で畳もうとした。

畳みきれずに、禿げた部分が余計に目立った。


「……これ。かっこ悪いだろ」


「痛むのですか」


「痛い」


即答だった。


「一枚抜くたびに、痛い。でも落とさないと、この国の契約が止まる。だから落としてた」


「どなたか、礼を申し上げましたか」


「誰も」


少年は、梁の上で膝を抱えた。


「おれ、ずっと天井裏から見てた。人間が、おれの羽根で字を書くとこ」


「はい」


「書き損じると、ポイって捨てる。くしゃくしゃに丸めて、暖炉に放る。一年に数枚しか落とせないのに」


声が、少しだけ低くなった。


「百年くらい、それを見てた」


わたくしは、何も言わずに聞いていた。


「でも」


セラフィ様が、顔を上げた。


「十二年前、小さいのが来た」


「……わたくしですね」


「おまえ、八歳だったろ。でっかい椅子に座って、足が床に届いてなかった」


「はい」


「書く前に、三秒止まるんだよ、おまえ。毎回。十二年、一回も飛ばさなかった」


わたくしは、黙っていた。


あれは、ただの癖です。

前世の上司に叩き込まれた、息を整える手順。


「で、一枚も」


少年の声が、掠れた。


「一枚も、捨てなかった」


梁の上から、ふわりと降りてくる。

素足が床に着いた。


天使は、わたくしの正面に立った。背はわたくしの胸ほど。


「三千百二十四件。おれの羽根、三千百二十四枚。全部、字になった」


「……仕様です。契約書は、一文字の誤りも許されませんので」


「知ってる」


セラフィ様は、ぶっきらぼうに言った。


「理由なんてどうでもいい」


曇天色の瞳が、まっすぐにこちらを見た。


「ずっと見てた。おまえだけが、おれの羽根を一枚も無駄にしなかった」


わたくしは。


――十二年、泣いたことがありませんでした。


泣いても条文は変わらない。そう知っていたから。


だからこのときも、泣きませんでした。


ただ、少しだけ。

声が、出にくくなっただけです。


「……お役に立てたのでしたら」


「立った」


「よろしゅうございました」


「おい」


「はい」


「おまえ、どこ行くんだ」


「隣国の辺境へ。小さな代書屋でも開こうかと」


「ついてく」


「は」


「ついてく」セラフィ様は繰り返した。「おれ、おまえの羽根ペンになる」


「……天使が、ペンに?」


「なれる。たぶん。やったことないけど」


「検証なしの実装は推奨いたしませんが」


「うるさい」


少年は、ふいと顔を背けた。

白衣の裾を引きずって、扉のほうへ歩いていく。


途中で立ち止まり、背中を向けたまま言った。


「あと」


「はい」


「パンが、食べたい」


「……どのような」


「甘いやつ。おまえがチビに分けてたやつ。いい匂いがしてた」


「蜂蜜パンですね」


「べつに、欲しいわけじゃない」


「はい」


「……ちょっとだけなら、食う」


扉の外から、ぱたぱたと足音が近づいてきた。


「リゼット様ー! あのね、わたし、ついてく! 字、まだ途中だもん!」


箒を抱えたニナが飛び込んできて、セラフィ様を見て、固まった。


「……だれ、このこ」


「天使です」


「ふうん」


ニナは三秒で納得した。十歳の順応力は恐ろしい。


「パン、一個ずつ買えばいいの?」


「おれのを一番でかくしろ」


「ずるい!」


わたくしは、荷物の紐を結んだ。


(――業務引継ぎ、完了ですね)


(引継ぎ先は、ございませんが)


◇


半年後。


隣国の辺境都市クレンデル。

石畳の坂の途中に、小さな看板が出ている。


『契約代筆所 アルノー』

『誓約書、読み合わせいたします。――天使同伴』


朝七時。


「ただいまー!」


ニナが紙袋を抱えて飛び込んでくる。

蜂蜜パンが三つ。わたくしと、セラフィと、自分の分。


「今日のはね、こっちが一番おっきい!」


「よこせ」


窓辺の棚の上で丸まっていた白衣の塊が、むくりと起き上がった。


「だめ! 今日はわたしが一番おっきいのにする!」


「おれだ」


「わたし!」


「リゼット、判決」


「……調停誓約書・第二項、『判定は計量によること』。重量を計測いたします」


わたくしは天秤を出した。


この争いの調停誓約書は、三ヶ月前に冗談で一枚作成したものです。


冗談で作ったのに、毎朝使われている。


契約とは、そういうものです。


「リゼットさん、いるかね」


扉が開いた。


朝一番の客は、熊のような巨躯の男。赤毛の無精髭。

元王国騎士団第三隊長、現・冒険者ガルド・レンブラント。


王都の騎士団は半数が退団し、冒険者に転職した。彼もその一人です。


「ギルドから、新しい討伐契約を渡されたんだがな」


くしゃくしゃになった紙を差し出してくる。


わたくしは手袋を嵌め、受け取った。


黙読。十七秒。


「第四項」


「お?」


「『討伐対象の個体数が事前申告を超過した場合、超過分は無報酬とする』。――これ、逆です」


「逆?」


「魔物が想定より多かったら、余計に働いて、ただ働きが増える条項です。普通は割増になります」


ガルドさんの顔が、みるみる赤くなった。


「あの野郎――」


「撤回させます。お待ちください」


わたくしは筆を取った。


「ほら。羽根」


セラフィが、棚の上から羽根を一枚抜いて、ぽいと投げてよこす。


「……痛いのでは」


「おまえが使うなら、いい」


ぶっきらぼうに言って、またパンにかじりついた。


ガルドさんは、その光景をじっと見ていた。


やがて、ぼそりと言った。


「……お嬢ちゃん」


「はい」


「おれは、あんたに、一度も礼を言わなかった」


「存じております」


「容赦ねえな」


「事実の確認でございます」


ガルドさんは笑って、それから深く頭を下げた。


「……ありがとう。十二年分」


「――承りました」


彼は蜂蜜パンを三つ置いていった。

ニナが四つ目を要求し、却下された。


◇


王都の話は、冒険者たちが運んでくる。


ユリウス元殿下は、王太子位を剥奪された。

現在は新設の『書類整理局』で、三千百二十四件の契約を一から作り直しているそうです。


羽根は、一日一枚しか手に入らない。

書き損じれば、その日は終わり。


彼は生まれて初めて、『一文字の誤りも許されない』という言葉の意味を、身体で知っている。


先月、第二百三号の再作成に、十九日かかったと聞きました。


(十九回、書き損じたんですね)


(八歳のわたくしは、一回で書きましたが)


ミレーユ様は、男爵領に戻された。


『元聖女』として見世物小屋に売られかけたところを、わたくしが一枚の誓約書で止めました。


無償ではありません。


第三項――『今後十年、嘘をつかないこと』。


彼女は泣きながら署名した。


「……わたし、はじめて、自分で決めました」


「結構でございます。署名は、日付の右に」


「ねえ、リゼット様。どうしてミレーユ様のこと、助けたの」


ニナが聞いた。


わたくしは答えた。


「助けてません。契約しただけです」


◇


その日の夕刻。


閉店の札を出そうとしたとき、扉が開いた。


黒い外套。深く下げたフード。顔は見えない。


セラフィが、棚の上で動きを止めた。


「……本日は、閉店でございますが」


客は答えず、懐から一枚の書面を出し、机に置いた。


古い。紙が黄ばんでいる。


封誓約書。


羽根の封印が、まだ生きている。


わたくしは手袋を嵌め直し、署名欄に目を落とした。


――そこには、幼い字で。


『リゼット・アルノー』


日付は、十二年前。


わたくしが、八歳の年。


(……待ってください)


(わたくしの最初の封印は、第七百四号。王太子正統性担保誓約)


(それより、三ヶ月早い)


(こんな案件、記憶にない)


(――稟議を通した覚えのない案件が、走っている。これが一番怖いんです)


かたん、と音がした。


セラフィが、棚から降りていた。


白金の髪の少年は、黄ばんだ書面をじっと見下ろしている。

曇天色の瞳から、いつものだるそうな色が完全に消えていた。


部屋の空気が、冷えた。


「セラフィ様?」


天使は、低く呟いた。


「それ」


「はい」


「おれが封じたやつじゃない」


◇


(※お読みいただきありがとうございました。『誰にでもできる仕事』が、どれだけ国を支えていたか。少しでもスカッとしていただけましたら、ブックマーク・評価をいただけると大変励みになります。

次章『八歳の誓約書』――母オリヴィアが二十年黙っていた理由と、黒い外套の客の正体。まもなく公開です)

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