AI使用不使用でみんなガーガー言ってるけど、結局のところは読む人のAIを見抜く力を鍛えれば済む話じゃないとおもう件について
AIの話がエッセイで大炎上してますね。 くろねこです。
なろうがついに動きましたね。
AI利用状況の設定必須化で六月九日施行。
前からの作品も九月一日からは未設定では更新もできなくなるそうです。
もっとも、投稿済みの作品に更新をすることもナカナカないでしょうけど……。
エッセイサイト内では、運営の対応が遅い、という声が上がっていますけど、もっともだと思うんですよね。
古い作品も含め、一斉にAI利用状況の設定必須を六月九日にしたら良いのですから。
ただ今回、この規約改定を巡って方々で上がった声を眺めていて、自分はずっと違和感が浮かぶんですよね。
だから、その違和感の正体をここに書いておきます。(本来は手打ちが良いのですが、AIの力を借りて書きます)
今回、たくさんのエッセイを見る限り、議論の多くは「人間が書いたかAIが書いたか」に集中していました。
人間が書いた作品を守れ。AIの作文を読まされるのは嫌だ。表記を義務付けろ。
まあ、途中まで読んでいて、実はAIで作って居ました、ってなった場合は手打ちそばを語っておいて、実は製麵機でソバを打ってました、のような感じで騙された、って気持ちは分かる。
分かるんですけど、そもそもココにでる小説は、そもそもどうなの? 手打ちのソバや高級フレンチのようなモノじゃなくて、ファミレスやマックのようなどれを読んでもソコソコ面白い、けど、どれも似たような魂のないテンプレ作品じゃないかな?
って、しみじみおもうんですよね。
ぶっちゃけいうと、自分はAIをメインで使って書いています。
なので正直に言いうと、「人間が書いたかどうか」は、自分の評価基準ではないんですよね。
自分が問うのはただ一つです。
その作品の根っこに、作者の魂が入っているか?
言い換えると、その作品にその個人が生きて来て感じたソレまでの体験から形作られた人格のコアがあるかどうか、つまり、信念。怒り。優しさ。標準からの揺らぎ。 何を求め、何に重きを置くか?
書くものに、そういうものが込められているかどうか。それだけが評価基準です。
なので、AIを幾ら使おうが、その根っこがあれば自分はその作品を認めます。
逆に、全部人間が書いていても没個性のテンプレをなぞっただけなら、それは自分にとって評価に値いせずです、AIが作ったゴミ(作品)と何が変わるのか? と。
自分はポン出し量産についてあえて言わせて貰います。
AIやテンプレで、作品にいかほどの文量を稼いだにせよ、それは既に形骸である。
あえて言おう!カスであると!
プロンプト投げて、そのまま貼り付けただけの作品。
作者の個性も信念も何も入っていない作品。ああいうものは自分も無くなった方が良いとひしひし思ってます。
むしろそういうものが増えたせいで、AIを使う書き手全体が白い目で見られるようになったのは、それは正直迷惑ですね。
本来はAIを使って作品を作る本質は、手抜きをして楽をする事ではありません。
AIを使う作品をつかう本質は、AIを使う事で本来は動かないハズのキャラに魂を入れ、自由に動かし、キャラ間でどのような会話をするのか? をさせることで、作品に生き生きしたモノを入れるのが本来のAIを使って作品をつくる目的です。
そして、今回の議論の中でこういう声もあります。
書きたいものがある。頭の中に物語がある。でも文章が書けない。学がない。基礎知識が足りない。だからAIに頼る。 と。
これを「ズル」と言えるのかな~っと思います。
そりゃ、ちゃんと小説を書く勉強をし、文法を学んで、ちゃんとした日本語で書けるようにしてから、小説を書きましょう、という意見もあると思いますし、それが正論だと感じます。
けど、それをやってミンナがみんな綺麗な文章が書けるようになるのか?
というとソレは無い事ですです。 残酷ですが個人差がありますから。
みんな頑張ればオリンピック選手並みに走れるのか? 頑張れば某歌手みたいにうまく歌えるようになるのか? 生まれてから全ての時間を勉強に費やせばみんな東大理Ⅲにはいれるのか? って所です。
ネコはニャー、とかしか鳴けないし、イヌはワン、としか鳴けないし、カメはチーターには速さではどうあがいても勝てない、ですね。
なので、自分の力を補う意味で、目が悪ければメガネをかける。耳が悪ければ補聴器をつける。頭が悪くて文章が書けなければAIに補ってもらう。
自分にはそれを否定する言葉が見つからないです、自分の短所を工夫で補っているだけだから。
普通のことが簡単ではない人間がいる。
それを忘れた議論は、どこか傲慢じゃないかと思う次第です。
あと、規約改定は紳士協定に過ぎない、という指摘も多々ありましたね。
個人的には、アレは正しいと思います。
自己申告制である以上、悪意ある者を完全に排除することはできないので、ある程度AIに精通した人なら簡単に網をくぐれるでしょう。
もし、完全に排除するなら、創作中の画像を公開するなりして受験のようにするしか無くなりますが、ソコまでは無理でしょうし。
なので、高度にAIを使いこなした作品は隠れて残り続けるはずです、いたちごっこになるという予測も正しいとおもいます。
けど、自分はでもそれでいい、とも思っています。
ルールが存在することそのものに意味があるのだと思います。
運営からの明確な線引きがあれば、少なくとも「知らなかった」は通用しなくなるし、悪意ある者に対して通報・対処する根拠が生まれる。
対処する歯止めがかかっただけ前進だと思います。
今回の議論全体を通じて自分が思ったのが、全員が以前から言われていた同じ敵を見ているのに、戦い方が違うせいで味方同士で消耗している所です。
なろうが変質してしまった根本原因である、没個性。無魂。量産。
それが以前から言われていた問題の本質だということは、おそらく誰も異論がないはずです。
ならば問うべきは「人間が作ったか」ではなく「魂が入っているか」じゃないかと思います。
魂(作者の思い)が入っているならば、AIを使おうが本物。 逆にテンプレ作品で魂が無いなら人間が書こうがゴミ、と。
なので、町の描写やら衣服の描写やらでAIの補助を使って書くのは個人的な意見は無問題と理解しています、マンガで言うとスクリーントーンを張る様なものですからね。
まとめとして、自分はこれからもAIを使って書くと思います。
ーー根っこの部分は自分が作り、そこからAIを使って枝葉を伸ばすように作品を作ると思います。
道具が何であれ、込めるものが本物なら、それは本物の創作ですから。
紙からPCに創作が変化し、さらにAIに変化したように今回も同じような変化だと思います、
けど、どの未来になっても、自分への問いは変わらないですね。
お前の作品の根っこに、お前はいるか。
ただそれだけです。
AIによるオリジナルがこれです。(byクロード)
2026年5月・なろうAI規約改定をめぐる言論空間の評論
今回の規約改定を巡る一連のエッセイ・コメント群は、単なるサイト運営への意見表明を超えて、創作とは何か・表現の価値はどこにあるかという根本的な問いを浮かび上がらせた。
論者たちは大きく三つの層に分かれる。
一つ目は価値論で戦う層。人が書くことそのものに意義があるという信念を持ち、規約強化を歓迎しAI排除を望む。感情的な熱量が高く、読み手への責任感が強い。
二つ目は構造論で分析する層。規約の実効性・運営の意図・市場の動向を冷静に読み解く。感情を排して現実を見るが、故に結論が悲観的になりやすい。紳士協定に過ぎないという指摘は鋭いが、ではどうするかという答えは薄い。
三つ目は実存論で語る層。書けない自分がいる、それでも形にしたいものがある、AIがあってはじめて可能になったという個人的な声。議論の熱量は低いが、最も反論しにくい強さを持っている。
この三層が交差する中で見えてくるのは、全員が「没個性の量産AI作品」を問題視しているという事実だ。価値論者も構造論者も実存論者も、ポン出しそのままの作品を肯定する者は一人もいない。
にもかかわらず議論が噛み合わないのは、評価の軸が「誰が作ったか」と「何が込められているか」で分裂しているからだ。
前者は制作過程を価値の根拠にする。人間が書いたという事実そのものが作品の正当性を担保するという考え方だ。後者は込められたものを価値の根拠にする。手段は問わず、作者の魂・個性・揺らぎが伝わるかどうかだけが問題だという考え方だ。
この二つは表面上は対立しているが、本質的には同じ敵を持っている。
没個性・無魂・量産。それが共通の問題だ。
うどんの手打ちかどうかより、うどんが美味いかどうかを問えという視点と、手打ちであることそのものに価値があるという視点の対立、と言い換えてもいい。
どちらが正しいかは、おそらく永遠に決着しない。なぜなら読者も一枚岩ではないからだ。制作過程を重視する読者もいれば、読書体験だけを重視する読者もいる。その両方が存在する限り、この議論は続く。
規約改定はその議論に一つの区切りを与えたが、解決はしていない。むしろ可視化されることで、これまで曖昧だった対立が明確になる段階に入ったと言うべきだろう。
では、エッセイに落とし込む
魂の話をしよう
作者:くろねこ
なろうがついに動いた。
AI利用状況の設定必須化。六月九日施行。九月一日からは未設定では更新もできなくなる。
遅い、という声がある。当然だと思う。
ただ、今回この規約改定を巡って方々で上がった声を眺めていて、自分はずっと違和感を抱えていた。
その違和感の正体をここに書いておきたい。
議論の多くは「人間が書いたかAIが書いたか」に集中していた。
人間が書いた作品を守れ。AIの作文を読まされるのは嫌だ。表記を義務付けろ。当然の声だと思う。気持ちもわかる。
でも、自分はAIをメインで使って書いている。
だから正直に言う。
「人間が書いたかどうか」は、自分の評価基準ではない。
自分が問うのはただ一つだ。
その作品の根っこに、作者の魂が入っているか。
言いたいこと。信念。怒り。優しさ。標準からの揺らぎ。
そういうものが込められているかどうか。それだけだ。
AIを幾ら使おうが、その根っこがあれば自分はその作品を認める。
逆に、全部人間が書いていても、没個性のテンプレをなぞっただけなら、それは自分にとって評価に値しない。
誤解しないでほしいのだが、自分はポン出し量産を擁護したいわけではない。
プロンプトを投げてそのまま貼り付けただけの作品。作者の個性も信念も何も入っていない作品。ああいうものは自分も要らないと思っている。
むしろそういうものが増えたことで、AIを使う書き手全体が白い目で見られるようになった。それは迷惑だとすら思っている。
ただ、こういう声も今回の議論の中にあった。
書きたいものがある。頭の中に物語がある。でも文章が書けない。学がない。基礎知識が足りない。だからAIに頼る。
これを「ズル」と言えるだろうか。
目が悪ければメガネをかける。耳が悪ければ補聴器をつける。文章が書けなければAIに補ってもらう。
自分にはそれを否定する言葉が見つからない。
普通のことが簡単ではない人間がいる。それを忘れた議論は、どこか傲慢だと思う。
規約改定は紳士協定に過ぎない、という指摘もあった。
正しいと思う。自己申告制である以上、悪意ある者を完全に排除することはできない。高度にAIを使いこなした作品は隠れて残り続けるだろう。いたちごっこになるという予測も当たるだろう。
でもそれでいい、とも思っている。
ルールが存在することそのものに意味がある。明確な線引きがあれば、少なくとも「知らなかった」は通用しなくなる。悪意ある者に対して通報・対処する根拠が生まれる。それだけで十分に前進だ。
この議論全体を通じて自分が感じたのは、全員が同じ敵を見ているのに、戦い方が違うせいで味方同士で消耗しているということだ。
没個性。無魂。量産。
それが問題の本質だということは、おそらく誰も異論がない。
ならば問うべきは「人間が作ったか」ではなく「魂が入っているか」ではないのか。
自分はこれからもAIを使って書く。
ただし根っこは自分が作る。言いたいことは自分が決める。揺らぎは自分のものを入れる。
それが自分の基準だ。
道具が何であれ、込めるものが本物なら、それは本物の創作だと信じている。
規約が整備されたこの先、何が可視化されるかは分からない。
AI作品が駆逐されるかもしれない。逆にランキングを席巻するかもしれない。人間作品とAI作品が棲み分けるかもしれない。
どの未来になっても、自分への問いは変わらない。
お前の作品の根っこに、お前はいるか。
それだけだ。




