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1-6 水面に浮かぶエフェメラル

 助けてほしいなんて言ってない、か。それが莉央奈から発せられた時、目の前が真っ暗になるような感覚になって、正直心がねじ曲がりそうになった。だけど、ここで身を引いてしまったら、何もしていないのと同じになる。それは非常にまずい。大人にならないといけない時期まで、もう時間がないのだから。成長の機会を逃すわけにはいかない。ということを考えると、今日は上手く立ち回れたような気がする。まあ、明日以降は全く自信がない。


「玉樹ちゃん……?」

「うあっ、大丈夫。嫌なことを思い出してて、ぼーっとしてただけだから」

「おじいちゃんから連絡は返ってきた?」

「えーっと、今漁港から戻るので、少し待っててください、だって」

「おじいちゃん、スマホ上では標準語なんだ」

「いや、おばあちゃんが翻訳したのを読んでる。元の文は、ほらこんな感じ」

「あぁー、暗号だね……」


 このまま屋根のある場所で待機していても暇だし、すぐそこに大海原が見え隠れしているので、近くまで行ってみることにした。灼熱の直射日光、目が眩むほどの陽炎、先程までの清涼感が嘘のように、水族館の外は真夏の渦中にあった。莉央奈の日傘の隅に潜り込んでみたものの、大して暑さは和らがない。少し後悔したけど、海まで行けば涼しくなることを信じて、屋外のエスカレーターで海に近付く


 水族館の周りに広がる公園には、家族連れが多く散策していて、小さい子供たちが真夏を厭わずはしゃぎ回って、賑やかで活気のある雰囲気だった。もちろん、莉央奈は変わらず暗い顔をしている。


 で、少し暑さを我慢して歩くと、美しい海が見渡せるようになった。磯の香りと爽やかさを乗せた潮風に惹かれ、スロープを降りて海岸に近付く。東京にはないエメラルドグリーンの海が広がっていて、植生等も合わさって、とても南国らしい恬然とした光景だった。東京はもっと薄暗くて鬱蒼としていて病んでいる。決してそんな事はないのだろうけど、たった数日で記憶の中にある東京の景色が塗り替えられつつあった。


「透明度の高い、綺麗な海だよねー」

「まー、うん、緑で綺麗だと思う」


 莉央奈は水平線に薄っすら浮かぶ島を、眩しさに少し目を細めながら見つめていた。無気力で退嬰的で、死にたいって気持ちだけが溢れ出ていて、決して海の美しさに見惚れているというわけではない事だけは分かった。夏の眩しさを全部吸い込んでしまうような闇がそこにはある。まあ、それをどうやったら取り払えるのか、真剣に考えようとしている私も、生命力あふれる夏に似つかわしくない側の人間なんだけど。


「例えばさ」

「んー?」

「海に飛び込むのは、どうかな。誰にも迷惑かけないどころか、海洋生物たちの餌になれて役に立つと思うんだけど」

「またそういう事を……」

「ギリギリになって慌てたくないから」

「いい?海に飛び込んで死ぬとね、最初は沈んでも、やがて遺体の中でガスが発生して浮き上がってくるの。そうしたら水死体を誰かが発見してしまうかもしれない。不愉快極まりないでしょ」

「んー、海に喰らわれるのって、ロマンティックで良いと思ったんだけどなぁ。なかなか手強い……」


 莉央奈の何が凄いって、少し冗談めかすことなく淡々と、でも本気で残念そうにそんな事を口にするところである。死にたいなんて一ミリも脳裏をよぎった事はない身としては、全く理解ができない、なかった。


 死ぬことは怖いと感じていたけど、莉央奈との出会いである意味死が身近になった今、それは自分に縁がないから怖かったのではないかとも思えた。考えれば考えるほど怖がるべき箇所が分からなくなっていく。耐えがたい苦痛が待っているとしても、次の瞬間には意識が途切れているはずだし。そもそも私には叶えたい夢もやりたい事も別にないわけで、私たち二人を分かつ物なんて案外存在しないのかもしれない。


 でも、約束は約束だから。


「次は、もっと莉央奈さんが楽しめる場所に行こう」

「あぁ、うん、ありがとう。心意気は、受け取っとく……」

「私は、莉央奈さんの笑顔が欲しい。一番わかりやすい幸せの指標だから」


 そんなことを言ったら、波の打ち上げられる音も聞こえない程の静寂が流れる。私が横を向いて莉央奈を凝視すると、彼女は目を何度かしばたたかせてから、少しだけ口角を無理に上げた。


「そうじゃなくて、もっと心の底から溢れてくるような」

「もうずっと、こんな作り物で生きてるから」

「作り物は作り物で、処世術としていいと思う」

「なるほど……?」


 会話が途切れる。莉央奈の視線は、凪いでいるようで、実はその下に海流が渦巻くような海に吸い寄せられていた。一方の私は海よりも、莉央奈の横顔をしきりに確認してしまう。何か僅かにでも変化してくれることを期待して、それが無駄な祈りだと分かっていたとしても。


「うあっ」


 鬼ごっこをしている元気いっぱいのちびっ子たちが莉央奈にぶつかってきて、莉央奈の覇気のない声が耳に届く頃には、空気の通り道として開けておいた隙間が埋まった。隕石でも衝突したのかと思うぐらいの熱が、身体の半分を覆う。額にはまたじりじりとした痛みが広がった。


「おあっ、ごめんっ、また……」

「え、痛かった?」

「全然、全く。そっちこそ大丈夫だった?」


 子供たちは嵐のように通り去っていった。私も日傘の外まで逃げた。


「どうしたの?」

「立ち位置が悪かったかなーって」

「そんなことないと思うけど……」

「昨日の朝もぶつかったし、距離が近すぎるのかもしれない。気を付けるよ」

「んー……そう?」

「うん。それより、おじいちゃんを待たせると悪いしさ、早めに駐車場に戻ろう」

「それもそうだね。……入りなよ、日傘」

「入ってもいい……?」

「どうぞ……?さっきまで入ってたのに」

「だって、またぶつかると悪いし」

「えぇ……いいよ、好きなだけぶつかれば。気にしないから」


 と、莉央奈は表情一つ変えずに言ってきた。その台詞は力士が言うなら説得力があるけど、吹けば飛ぶような莉央奈が口にするのは、どうなんだろうか。とりあえず、誰かがぶつかってこなくても、歩幅が合わなくて靴を踏んでしまうとかありそうなので、身体の半分だけを日傘の中に潜り込ませることにした。


「にしてもさ、子供たちって元気が有り余ってて、凄いよね……」

「私たちにもあんな時代があったんだろうね」

「……自分にあったかな。にわかに信じがたい。下の子の暴れようを見てると、特に」

「ふーん、下の子かー。あっ、もしかして、面倒を見させられたりしてた?」

「親が共働きしてたから仕方ないよ。別にそれが嫌で……ちょっとは嫌だったけど、あんまり気にしてないから」

「本来は親自身が何とかすべきことで、莉央奈さんは自信を持ってNoを突き付ける権利があると思う」

「だからそうしたんだけどね……」

「でも、死ぬのはダメ……夏が終わるまでは」

「分かってるよ。約束を破ったりは、しないから、うん」


 その言葉を、私は信じたい……いや、初めから莉央奈を信じるしか選択肢はない。お互いが相手の運命を握りしめている。莉央奈のことを信じないといけない。私は、身体のもう半分の半分も日傘に潜り込ませた。

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