1-3 常夏異風のターミナル
ベッドの外に垂れ下がっている莉央奈の腕を持ち上げる。白くて細くて透明感のある指、それは深海魚のように、人肌が触れるだけで壊れてしまいそうで、滑らかでふわふわなのに冷たく血が通っていないようで。彼女の手を必要以上に眺めてから、ベッドの上に戻す。こんなに美しく貴いものが失われるなんて、それを見過ごせるはずがない。人の遺伝子はそういう風にできている。
莉央奈は窓から差し込む白光をまるで感知していないかのように、長いまつ毛に柔らかそうな唇、白皙を極めた頬、天の川を帯びているかのように艶のある髪、何一つとして微動だにさせず、ただひたすらに眠り続けていた。夢すらも見ていなさそうだった。
生きて、いるんだよね……?呼吸を、しているんだよね?しばらく物言わぬ莉央奈を観察してみて、やっぱり心配になったので、確証を得ようと自分の顔を莉央奈の顔に近付けた。
「ん……あたっ。……えぇ、何してるの……?」
「え、生存確認だけど。というか、なんでいきなり起き上がったの?」
結構思いっきり額同士ぶつかって、後で軽く膨れるぐらいには痛かった。痛みを和らげようと、二人して本来なら眠い目を擦っているはずの手で、自分の額をさする。
「単純に、びっくりした」
「びっくりさせたなら、ごめん」
「……というか、早くない?」
莉央奈は机の上のデジタル時計を一瞥してそう言った。
「起こすつもりもなかった、ごめん」
「玉樹ちゃん早起きだなーって」
「莉央奈さんより先に起きないとって思って。朝は憂鬱な気分になりやすいって、調べたら出てきたから」
「……逆死神」
「それはもう死神じゃなくない?」
莉央奈は、昨日と変わらない厭世的な瞳でこちらをしばらく見つめてから、ベッドから降りて化粧品の入ったポーチを手に取り、洗面台の方へ向かっていった。一体、今どういう感情なんだろうか。希死念慮に満たされているはずなのに、もちろん私が阻止するけど、もうすぐ死ぬんだという心持ちのはずなのに、普通にしっかり朝の支度をして普通に逃避行に参加して、行動だけはきちんと今をいなしている。自暴自棄とは違うということなのかな。
私には莉央奈のことがまだ何も分からない。知識も理解も不足している。そんな人と私は逃避行をしている。変な状況だとは思うけど、それを主導している自分も変だと思うけど、それしか方法がなかったというのも事実である。あの時、莉央奈から手を離して、彼女を夜に放つのは、絶対に正しくなかったから。
どれだけ綺麗に化粧をしようとも、死んだ目と俯いた鬱めいた表情は消えそうになかった。淡々と、最低限の筋肉だけを動かして、ホテルの朝食を咀嚼する莉央奈を前に、そんなことを思った。まあ、それをちぐはぐだと感じているのは、自分だけなのかもしれない。可愛いまま美しいまま死にたい。それか、莉央奈も希死念慮をファッションの一環と捉えている人なのかもしれない。そういう価値観の人たちも、世の中には存在するらしいし。
まあ別に、莉央奈を酷い現実から掬い上げるのに、自殺したい理由を知っている必要はないのである。莉央奈とは昨晩出会ったばかりで、そもそも友達と呼べるのかも怪しい関係で、そもそも私はすこぶる対人関係を築くのが上手なわけでもなく。いたずらに踏み込んでも莉央奈を傷付けるだけだ。莉央奈が冷静に物事を考えられる場所に導ければそれでいい。目標も目的も明白だった。
で、朝9時過ぎ、おばあちゃんの家がある村を通る高速バスに、無事に乗り込めた。バスの運賃ぐらいは自分の財布に入っていた。莉央奈には飛行機代とホテル代、いつかどうにかして返さないとなぁ。
「終点まで行くの?」
「あっいや、確か……山里って所で降りるはず」
「そんな曖昧で大丈夫?」
「普段は親がレンタカーを運転していくから、このバス乗ったことなくて……。まっ、私よりGoogleマップの方が沖縄の地理に詳しいだろうから。Googleマップより、すぐあやふやになる人間の記憶を信用する方が危ういよ」
「まー……そうかも、ね」
莉央奈はそう歯切れ悪く返事して、またつまらなさそうな表情に戻った。私はバスに乗る前、お手洗いに行ったついでにコンビニで買ったお菓子を、カバンの中から取り出す。これで束の間の自由を彩ろうと思って。
「莉央奈さん、じゃがりこ、食べる?」
「うーん……」
「どうぞ」
「あ、食べないといけない感じ?
「いけないってことは無いけど。ダイエットでもしてるの?」
「長女だけど我慢強くないから、続いたことない」
「十分細いのに……」
「そうかなぁ。まー、ありがとう」
莉央奈は口先を細めて、さくさく音を立てながら、一本だけじゃがりこを食べた。もぐもぐ口を動かしている様子を何となく目を離さないでいると、莉央奈は何度か目をしばたたいて、そっぽを向いてしまった。
「もう要らないの?」
「うん、後は玉樹ちゃんが食べていいよ」
「しょっぱい物じゃなくて、甘い物の気分だった?それなら……」
「私に気を遣わなくていいよ。気持ちだけで十分だから……」
距離を置きたい人に差し向けるような表情で、にべもなく断られた。なんかもう少し盛り上がるかと思ったんだけど、いや、じゃがりこだけでは盛り上がらないのも当然か。必要なのはピザポテトだったかもしれない。以前あんまり親しくない誰かの誕生日会に参加した時に、中央に鎮座していたし。
「昨日はよく寝られた?」
「まあ、そこそこ」
「それは良かった。寝れば大抵の悩みは霧散するから」
「大して気分は変わってないけどね……」
「そっか……」
「玉樹ちゃんが落ち込まないで」
「莉央奈さんの自殺を止めるっていう目標に近付けてないんだから、落ち込むという感情が生まれるのは当然というか、そもそも逆に喜んでたら、相手を不快な気持ちにさせるでしょ」
莉央奈は窓辺に肘を突いて、流れる外の風景を無為無策に眺めながら。
「私は、玉樹ちゃんまで巻き込みたくないんだけど……」
「じゃあ、早く解決しよう。動機は私のためでも何でもいいんだから」
「それができないから」
「それができないからダメっていうのも間違ってる。誰かを巻き込んで救いを得ようとするなんて、普通のことだよ。巻き込まれて振り回されて寄りかかられて鬱陶しいから、あの友達との関係を切ったなんてよくある事だよね。だけど、それでも皆やってしまうのは、そうすれば心が軽くなるからで。だから、私を巻き込んででも逃避行すればきっと、莉央奈さんの屈託は晴れるよ」
「違うよ。生きるのに向いてないんだってだけ」
「それは、私の言ったことの、何に違うって言ったの……?」
「さあ」
莉央奈は枯れた川のような目で、時々あくびをしながら、退屈そうに。死期を待つことしかできない、終末期病棟の患者のような雰囲気を醸しながら、されるがままにバスに揺られていた。痛み止めを注射するような一時的な逃避では、もはや莉央奈の心を慰めるには足り得ないのだろうな、と理解した。青春の逃避行とは本当に、痛み止めのようなものだ。束の間の砂上の楼閣のようなヘテロトピアを満喫することに他ならないのだから。
一人で寂しく細々とじゃがりこを啄みながら、今後のことについて思索を巡らせた。おばあちゃんの家に着いたら、大人に触れたら、そうしたらこの逃避行は終了である。まあ、逃避行が自由が莉央奈を癒せない以上、それは問題ない。問題はその先、そしておばあちゃんは、私たちを歓迎してくれるだろうけど、実際問題いつまでそこに居られるんだろうか。莉央奈が十分に思い直せるほどの時間と余裕を確保できるのか。その後、腐った現実から完全に決別できるのか。
バスの先頭に付いているデジタル時計が刻一刻と進んでいく感覚が、授業が終わるのを今か今かと待ちわびる日常と重なる。背中に冷たいものが流れ始めた。何だか、酷い現実から逃れられない気がする。現実が、勢いに身を任せた逃避行を咎めてくる予感がする。刹那的な行動の正当化に奔走しすぎたツケのようだった。
……それでも、私は莉央奈を救わないといけない。彼女がまだこの先も生きたいと心から願えるようになって、それで初めて自殺を止めたことになるし、私にはそこまで想わせる義務がある。それが理に適った理屈なんだから。
莉央奈が纏っている、目を離せば空に吸い込まれてしまいそうな儚さに、もう戻ることはできないんだと示し付けられたようだった。
世界一静謐な逃避行だったように思う。あの後、一言も交わすことなく、莉央奈はほとんど姿勢を変えることなく、私はじゃがりことグミをばくばく食べながら、相変わらずペシミスティックな莉央奈を眺めていると、あっけなく最寄りの停留所に着いた。家族でレンタカーに乗って行く時は、必ず何度か寄り道を挟むので、もっと時間がかかる印象を抱いていた。
「ここから少し歩くよ。道は大丈夫、ここまで来ればある程度は分かる」
「うん……」
バスを降りた莉央奈は、バス停から続く歩道から、簡単に跨げる柵一つで仕切られた高速道路を行き交う車たちを目で追っていて、咄嗟に身体が動いた。
「良くない、そういうの。どれだけの人に迷惑が……」
「しないよ。だって、車は容赦ができてしまう、電車と違ってさ」
「紛らわしいことしないで」
「紛らわしかったかな」
「もう、莉央奈さんも私だけ見てて。そうすれば、余計な気を起こさなくて済むだろうから」
「玉樹ちゃんを見てても、死にたみは消えないんだけど……」
「そ、そんなに凝視しなくてもいいよっ。比喩だからっ」
「まあ、分かった」
木の形や、やたら多い鉄筋コンクリート造の家を見ると、沖縄に来たという実感が湧いてくる。青く澄んだ高い空、照り付ける灼熱の太陽、それらを調和するように流れる南風、それらが三位一体となって爽やかで心地よい晴れ晴れしさを与えてくれる。大きく息を吸い込みたいところだが、ここは高速道路の真横なので少し我慢しよう。
そんな屈託のない南国情緒に対して、ロンドンにでもいるのかと言いたくなるぐらいあまりにも暗く淀んだ視線を感じる。それに加えて、制服と大して重くないリュックという、普段学校に行く時と変わらない荷物で沖縄の地を踏んでいることもあって、何だか複雑怪奇な気分にさせられる。とりあえず、遠い場所に来て非日常に浸って、日常を忘却する、みたいな方法では、莉央奈は救われないことが確定した。
「莉央奈さんは、沖縄には来たことある?」
「あるはずだけど、小さい頃の話だから、あんまり記憶にない」
「修学旅行で行かなかった?」
「沖縄じゃなかったね」
「私の高校は沖縄だった。まあ、こんな田舎には行かなかったけどね」
「修学旅行にもう行ったってことは、3年生?」
「そうだけど。莉央奈さんも?」
「うん。そう言えば、見慣れない制服だけど、どこの学校なの?」
「神宮高校だけど」
「あぁ、あの頭良いとこか」
「莉央奈さんは?」
「私は常磐松」
「へぇ、あぁ、知らない」
「神宮の子の眼中にはないかぁー」
「ち、違うっ。その、どんな学校だか知らないって意味っ。そもそも、宮高だってそこまで偏差値が高いわけじゃないし」
そんな露悪的な言い方をしなくてもいいのに。
よく考えたら、私たちはまだ出会って24時間も経っていないわけで、大して会話が弾むこともなく、気を紛らわすものなしに真夏の炎天下を30分ぐらい無言で歩き続けた。蜿蜒たる住宅街の小路をすたすた進んで、ようやくおばあちゃんの家の前に辿り着く。
もう汗で制服もろともびしょびしょである。胸元をぱたぱたさせると、気化熱ですごい冷える。安心感や達成感よりも、早く着替えたいという欲求に見舞われていた。
「島袋……ここが、おばあちゃんの家?」
莉央奈が日傘を折り畳みながらそう確認する。
「そうだよ。お母さんの実家だから名字が違う」
門にはぴかぴかの小さなシーサーが飾られていた。去年の台風で吹き飛ばされて、行方不明になっていたのである。玄関の前には小さな庭があり、そこにはおばあちゃんの趣味で、オクラやナス、謎の葉野菜が育てられていて、立派に枝を広げる松の木と共に緑を彩っている。木陰になっていて、涼しさのあまり蓮華蔵世界に来たような気分になった。
「どうかした?」
「んー、入っていいの……?」
「おばあちゃん優しいから大丈夫だよ。私たちのような不良だって、きっと受け入れてくれる」
「そういう問題なの、かな」
「でも、ここくらいしか、頼れる場所知らなくて」
「なんて説明するの?」
「正直に話す」
「え、正直に」
玄関の前で足を止めていると、扉の開く音がしてそちらを振り返る。収穫用と思しきはさみを持ったおばあちゃんが、目を丸くして立っていた。
「あらぁ、玉樹ちゃん?制服姿の玉樹ちゃんは初めて見たわ~。可愛く育ったわねえ」
「あー、うん。ひいおばあちゃんのお葬式の時に着てたと思うけど」
「そうだったっけ?まあいいや、なんでここに居るわけ?」
「あっ、えぇーっとね、その事なんだけど。この子が橋から飛び降りようとしてて、だから、辛い現実から逃げるためにここまで来たって感じで。つまり、家出を手伝った」
「おぉー、まい、ごっしゅ。まあー、遠路はるばるご苦労さん。暑かったでしょー。とりあえず二人とも上がっていきなー」
おばあちゃんはそう言いながら、閉じかかっている家のドアを足で開けた。おばあちゃんの家のにおいがする。何だか一足早く夏休みを迎えた気分だった。
「おああっ、おおっお邪魔します……」
私の背後で、莉央奈もおばあちゃんに手繰り寄せるように背中を押されて、怯えるように腰を低くしながら敷居を跨いだ。かくして、互いに見知らぬ女子高生の家出は、新たなステージに突入するのだった、?




