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1-2 前後不覚のラストフライト

 されるがままに流されて、自分を葬ってもらおうと思った怪物の中に入り込む。つまり電車に乗った。急ぐ必要もないのに駅まで走らされたせいで少し火照った身体が、よく効いた冷房で冷やされて、むしろ軽く身震いしそうなぐらいだった。


 彼女の片手は依然として私の手首を優しく握っている。その辺りだけはじんわりと温かさみたいなものが広がっていた。


「確かに養ってもらってる立場だけど、だからって何をされてもいいってわけじゃない。親の所有物でもない。私たちには人権があって将来があって、それを侵そうとする人からは、むしろ積極的に逃げるべきで。だって往々にして若輩者扱いしてくる人たちは、私たちの将来になんら責任を負おうとしないんだから」


 義憤系誘拐犯はもう片方の手で手すりを握りしめながら、独り言と会話の中間のような語りを延々と繰り出していた。それを、椅子の端の仕切り板に寄りかかって、ドアに付いている窓の外を流れる、いつも飽きずに変わらずに煌びやかに輝く東京の景色を見ながら、聞き流し学習した。


「子どもの権利条約では、単に差別されないとか教育・医療が与えられる権利とかだけじゃなくて、子供が意見を表明してそれを尊重される権利が定められているのに、頭ごなしに否定してくる大人の多いこと。だから、もし後で大人が何か言ってきても、この逃避行は国際的に認められた正しい行いだって、胸を張って言える。安心だね」


 そんなに理性的で冷めないのかな、なんて、それくらいは思った。


 気が付くと、いくつか空席が生まれていて、電車は地下に潜っていた。さすがに、トンネル内でかき鳴らされる轟音と張り合うことはしないようだ。彼女は静かになって、少しせわしなく車内を見回して、広告やLCDを見上げていた。


「……あの、どこに向かうつもりなの?」

「遠い場所、とにかく遠くへ行くの」

「誰も触われない二人だけの国にでも行くつもり?」

「えっと……そうだ、次の駅で乗り換えれば、空港に行けるよね」

「えぇ、飛行機に乗るの?」

「この足で這ってゆくのが好みなら、私はそれでもいいけど」

「いや……大がかり過ぎるというか、何の為にというか」

「遠くへ行くためでしょ」


 遠くへ行きたいなんて一言も、示唆すらしてないんだけどなぁ……。


 だけど結局、私は流されるままに彼女に手を引かれるままに電車を降りて、モノレールに乗り換えて、エスカレーターで昇って、空港特有の大きな出発案内板を見上げていた。無論、リードには繋がれたままである。


 周囲には空港らしく、大きな荷物を引っ提げている人たちばかりだった。それに比べて私たちは、えらく軽装備で来てしまったものである。着替えも寝間着もヘアアイロンも化粧水もメイク落としも何も持ってきていない。私は、本当はとっくに息もしていないはずだった。横にいる破天荒乙女だって、とっくに家に帰っているはずだったのに。世界の方が狂い始めている。そうであって欲しいとすら思った。


「どうなんの、私は」

「んー、どこでもいいかなぁ……、一番遠い場所は……」


 ここに来るまでの間に決めておけば良かったのに。いけない事をしているという背徳感だけで突き進んでいるように見えた。


「あ、那覇!」


 彼女の横顔から、指さされた先へと視線を動かした。


「おばあちゃんの家が沖縄にあるんだよね。そこまで辿り着ければ何とかなるはず。おばあちゃんなら分かってくれるよ。よし、行こう」


 私の返事を待たずして、カウンターの方へ歩き出していった。リードが張りかかって、また重力に引かれてぱたんと懸垂線を描いた。


「ねぇ」

「ん?他に行きたい場所あった?」

「そうじゃなくて、お金はどうするの?そんなにマイルが溜まってるの?」

「あっ……、今から家に戻って、お金をくすねてくる」


 立ち止まったかと思いきや、急に踵を返そうとしてくる。……溜息と同時に、今さら家に戻ろうとする彼女を引き留める言葉が零れ落ちる。私は純真な瞳に向かって、Diorの財布から取り出した札束を、扇状に開いて見せびらかした。


「これくらいあれば足りる?10万はあると思うけど」

「え、あっ、いや、なんでそんな大金……」

「なんでって、まあ、色々、ね」

「でも、それはあなたのお金だよね?」

「危うくドブに捨てるところだったお金ね」


 まあ、ドブで拾ったお金なんだから、ドブに捨てた方が良いような気もするが。


「本当にいいの……?」

「お札を見せびらかしておしまいなんて、私だってそこまで性格悪くないよ」

「そっか……分かった。ありがとう。そのお金で沖縄に飛ぼう」


 彼女はそう言って、少し口元を綻ばせたような気がした。私がこの逃避行を認めたと認識するかのように。わざわざ逃避行をアシストするなんて、私の無意識は何を考えているのやら。こんなことは自傷行為と変わらないんだって、明晰に理解しているのに。でも何回あの場に直面しようと、これだけの大金を握りしめていることを隠そうとはしないような気がする。それは、私に残された最低限の人間性、あるいは、白鳥の歌なのかもしれない。せめて彼女が最後まで突っ走れるように。


「お名前を教えてください」

「おあっ、そう言えば名前を聞いてなかった」

「ん、はい、渡辺(わたなべ)莉央奈(りおな)です」

「だそうです。えぇー、沓掛(くつかけ)玉樹(たまき)です」

「はい、ありがとうございますー」


 カウンターのお姉さんは業務スマイルで、淡々と手続きを進めていった。まあ、そうであってくれて、逃避行をしている身としてはとても助かる。お互いの名前も知らない、大して荷物も持ってなくて、当日予約に加えて現金支払いで搭乗しようとする高校生二人組?と、下手に訝しまれて警察に連絡されたら、ただでは済まない。多分、二人とも。


 そんなわけで、日本人の事なかれ主義のおかげで、無事に那覇行きの最終便の航空券を確保し、保安検査場を通り抜けられた。時間が時間なのでがらんどうな出発ロビーのベンチに座って、無数の航空灯火とどこまでも黒い夜に飛び立っていく飛行機を眺めながら、自分たちが乗る便が出発するのを待った。


「飛行機に乗る時はいつも旅行だったから。プルースト効果、あるいはパブロフの犬みたいな感じで、この空気を吸ったりキーンっていうエンジンの音とかを聞いたりすると、わくわくしてしまう。社会人になってしょっちゅう出張するようになったら、この高鳴りも遠い過去のことになるのかな」


 そんなことを耳から少し離れた位置で呟かれた。手に自分のものではない脈を感じる。そろそろ指先がふやけそうになっていた。


「ところで、えっと、玉樹ちゃん」

「なに?えぇー、渡辺さん、だっけ」

「あ、莉央奈でいいよ」

「んー」

「もしかして、そこまでの親密さは求めてない……?」

「莉央奈さん」

「あぁ、さん付けするのね。するに値する人間じゃないと思うけど」

「その、呼ぶのが長くてだんだん面倒になって、それで外すのが自然だから」

「な、なるほどね……?まあそれはともかく、いつまで手を握ってるつもり……?」

「だって、目を離したら、絶対死のうとするから」

「私が死んだら、玉樹ちゃんは悲しい?」

「誰かが死んで、それで当然だ、みたいな顔をするのは社会通念上許されない」


 玉樹は神妙でしかつめらしい面持ちでそう言った。それは打ち見にも照れ隠しなどでは無さそうだった。せめて愛の力で引き留めてくれれば、私の自殺がよりいっそう悲惨になるのに。


 結局、玉樹が解放してくれることはなく、ただ押し寄せる時間と玉樹に身を任せるほかなかった。玉樹に繋がれていないもう片方の腕を肘掛けに置いて、足を延ばして背もたれに深くもたれかかって、これから向かう夜空でも眺めた。星一つない澄んだ黒。曇り空と違って夜はどこまで高く飛んでも夜から逃げることはできない。その夜はどこへ続いているのだろうか。うーん、知らん。



 ——にわかには信じがたいが、どうやら沖縄に着いたらしい。到着ロビーには確かにハイビスカスとシーサーがいた。十中八九沖縄だろう。そうだね、確かに、生きていたら何が起こるか分からない。必ずしもそれは肯定的な意味ではないということも含めて実感した。


 私たちが乗ってきた便は羽田空港からの最終便で、完全なる真夜中の到着だった。こんな時間にバスがあるはずもなく、今日は空港近くのビジネスホテルに泊まることになった。もちろん、私のお金で。


 シャワーを浴びて備え付けのパジャマに着替えてから、ダブルベッドの上に仰向けになった。全身がひんやりとした感覚に包まれる。まるで、死化粧を済ませて霊安室にいるようだ。あるいは死後の世界が期待に反して実在して、私は今そこにいるのかもしれない。私の肉体はあの水無橋の下に、ばらばらになってずたずたになって、そこら中にこびり付いているはずで、本当の私は、とっくに死んでいるはずなのだから。


 そう言えば、ホテルの部屋に入ってからようやく、玉樹から解放された。まだ右手首に玉樹の熱が残っている。別に特段強く握られていたわけじゃないというか、後半はもはや添えているだけだったけど、それでも、何かの証のように玉樹の感触が、ぐるぐると手の付け根の辺りを周回している。


 手足を投げ出して、無気力によってベッドに縛り付けられていると、スマホが構ってほしそうに通知をしてくるので、仰向けになったまま腕だけを動かしてそれを手に取る。当然のことではあるが、早く帰って来いと疾風怒濤の如く、家族からメッセージが送られてきていた。さすがにうるさいし充電がもったいないので、電源を切ってスマホを握る腕を下ろした。……それでもまだ通知音が聞こえる。玉樹のスマホからだった。少し気になるので、漫然と上体を起こして、机の上の玉樹のスマホを覗き見た。こちらはこちらで、何か返信してと星火燎原の如くメッセージが流れていた。


 再びベッドに背中からダイブして、天井を仰ぎ見る。それにしても、私はともかく玉樹は全てを投げ出してしまっていいんだろうか。というか、投げ出したかったんだろうか。あの子も意外と、世界に目を背けて現実と決別したいのかもしれない。まあ、玉樹はそんな瞳をしていなかった……何の根拠もないけどね。


「り、莉央奈さんっ」

「えっ、あー、はい」


 洗面台の方から玉樹に名前を呼ばれた。きっかり返事をしたのに、それに対する返事はなかった。起き上がってベッドの縁に座り、玉樹が出てくるのを待った。


「どうしたの……?」

「生きてるか不安になったので……」

「まぁ……、玉樹ちゃんに迷惑はかからないようにするよ」

「私以外にも迷惑かけないように気を付けてね。皆がそうすると社会が回らなくなってしまうから」


 何の連絡も入れないで家出して、親にしこたま心配されているのは、迷惑のうちに入らないのだろうか。まあいいか、別に玉樹と甲論乙駁をしたいわけじゃないし。適当に笑って誤魔化した。


 玉樹は、万馬奔騰の如く流れる通知に気付いたようだけど、一回既読を付けるとそのまま電源を落として、また元の場所にスマホを置いた。そして、ダブルベッドの反対側の隅に、電車の中で両側から肥満の人に押し潰されているのかと思うぐらい縮こまって座った。しばらく背を向け合って沈黙。空調の奏でる重低音に耳を傾ける。


「寒い?私はシャワー入りたてだから、まだ温かいけど」

「平気」

「というか、気付いたら日付変わってた。もう寝る?」

「あぁ、もうそんな時間なの。じゃあ、寝ようかな」


 どうせ何もすること無いし、そもそもする予定があったら死のうとなんてしないし、さっさと布団に潜り込む。首だけ動かしてベッドの反対側を見ると、まだ玉樹は座っていた。


「寝ないの?」

「えっあっ、寝るよ、すぐ寝る。夜更かしは万病の源だから」


 そう言いながら玉樹は、部屋の照明を消してから、私と背中合わせの向きで布団に入った。向こうもまた遠慮して、布団の真ん中に巨大な洞穴ができるほど隅っこに。


「もっと真ん中に寄っていいよ、莉央奈さん」

「そっちこそ寄ったら」

「いや、私は大丈夫。寝相は得意分野なので」

「私も大丈夫。現代文の次に得意なので」


 玉樹に対抗してそう言ってみたものの、さすがに端すぎる気がしたので少しだけ中心へずれることにした。玉樹も身体をくねらせて、猫背な背中を僅かにこちらに近付けた。


「知らない人と同じベッドで寝るの初めてで、迷惑にならないか不安だな……」

「やっぱり、ツインの部屋にすれば良かったかな」

「それだと余計にお金がかかっちゃうから」

「別にまだまだ余裕あるんだけどな」

「まだ、学生なんだから」


 それはどういう理屈なんだ。学生は贅沢しちゃダメってことなのかな?まあ、贅沢は覚えない方がいいだろうな。



 布団の中に入ってから、仄暗い部屋に目が慣れるぐらいの時間が経ってしまった。その間、色んな問題と感情が脳内を駆けずり回っていたような気がする。これはもう、逃げるというよりむしろ、己の罪と向き合わされていると言うのが正確だ。世界はどうしても私を報いから逃がしてはくれないらしい。


 ずっと同じ向きでいたら肩やら腰やらが痛くなってきたので、寝返りを打とうと身体を転がす。丁度たまたま、玉樹が首だけを動かしてこちらを見ているタイミングで、お互い「あっ」と何も気まずくないのに気まずそうな声を上げて、玉樹は首を窓の方向に戻していった。私は顔を上に向けて、そして息をするように音吐を溢した。それが寂しさや静けさをいっそう引き立てることだとしても、それを辞めることができなかった。


「寝られない、よね……」

「眠くないわけじゃなくて、ただ、怖い、から。もし朝起きて、莉央奈さんが居なくなってたら、私がここに居る意味もなくなってしまう」


 夜の闇に溶けるような小声で、でも玉樹は現然と瞭然とそう言い尽くした。


「まあ、そこまではー、しないよ……」

「でも、死にたいんでしょ」

「んー……、それはぁ、否定できないな……」

「偶然だろうけど、本当に良かったよ、橋からの飛び込み自殺を選んでくれて。睡眠薬を大量に飲んで自殺することを選んでたら、助けられなかったから」

「眠剤飲んで自殺するのって難しいらしいから。失敗したくないし……」

「死への渇望が凄いね……」

「そうかな。自殺しようって決意した時、新しい扉が開いた気がした。こんな素晴らしいことを勝手に封印してたなんて、って感じで。絶対に死ぬまいと、何となく思い込んで身を削っていた日々の私が、今となっては滑稽で仕方ない」

「滑稽っ、なんかじゃない……。視野が狭くなってしまうのなんて、誰にだってあることだから。普通のことだから……。普通で当たり前でよくあることで笑わないでしょ。珍しくてどこかずれてて滅多にないから滑稽なの。だから莉央奈さんは滑稽じゃない。評価されるべきかは分からないけど、労われるべきではあると思う」

「だったらやっぱり私は滑稽だ。普通じゃないもん」

「個性は、皆にあるから普通だよ」

「ん-、個性かぁ……」


 死んで当然もまた個性……なんて言い放った暁には、なんて反駁されるんだろうか。そう思いながらすぅーっと目を瞑って、やっぱり無理だなと思ってもう一度目を開いた。


「もう、さっさと寝なよ。一緒に寝ようよ」

「分かったよ。寝る寝る、目を瞑るから。おやすみ」

「おやすみなさい」


 こっちを向かずして分かるなんて、玉樹はエスパーか何かなのかな。まあいいや、想定外の明日があることも、軽佻浮薄で暴虎馮河な逃避行の終着駅も、全部、全部どうでもいいから。そう思ったら何だか眠れそうな気がした。静寂が身体に馴染んで、瞼の裏の暗黒が心地良くて、まるで死んだように身軽になっていく。今日はぐっすり眠ることを許されている。どちらかと言えば、義務付けられている気がする。


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